映画「レディ・マエストロ」を観た。
http://ladymaestro.com/
女性指揮者ということでは当方もイルミナートフィルハーモニーオーケストラの西本智実さんの指揮するコンサートには何度か行ったことがある。大変に力強くてドラマチックな指揮をする人だ。
指揮者の仕事の大半は練習でオーケストラを纏め上げることだと聞いている。舞台の上で指揮をするのは最後の仕上げであり、料理人が料理を皿の上に盛り付けるようなものである。材料を洗ったり切ったり練ったり漬けたりすりおろしたり、煮たり茹でたり焼いたり蒸したり揚げたりすることが料理の殆どで、仕上がった料理を見せるのが指揮者にとっての舞台なのだ。
交響曲を演奏する人たちは皆そうなのかもしれないが、少なくとも指揮者はすべての楽器のスコアが頭に入っていてひとつひとつを聞き分けることができなければはならない。大変な仕事であり、特別な能力の持ち主でなければ出来ない作業である。
本作品のヒロインにはその特別な能力が既に備わっていて、必然的に映画としては一本道の成功物語になる。しかし時代はシモーヌ・ド・ボーヴォワールが「第二の性」で女性の自発的な解放を主張する二十年以上も前である。女性にとって凄まじい逆境であったのは間違いない。
女はかくあらねばならぬといった時代のパラダイムが人々を縛り、女性自身もそのパラダイムによって自分たちを縛っていた。女性は能力よりも見た目が重視される。本作品で言えばタイピスト採用のエピソードがその典型である。
人間は多かれ少なかれ他人に寄りかかって生きていくほうが楽である。日本人で言えば「お上」に従っていればいいとする生き方だ。失敗してもそれは「お上」のせいで、自分の責任ではない。第二次世界大戦の責任を日本人の多くが感じていないのも、その依存的な精神性のせいだ。ボーヴォワールが指摘したのはまさにその点であり、いつまでも世間の価値観に従って楽をしているうちは女性の自立はない。女性は自分自身の責任を背負うことでしか自由を得られないのだ。
主人公ウィリー・ウォルターズことアントニア・ブリコは女性に対する社会のあらゆる無理解を一身に浴びてなお、やりたい道を只管突き進む。有り余る才能が彼女を後押しした訳だが、本作品で才能というのは、持って生まれた能力というよりも、好きでたまらないことの方に重きが置かれているように思える。指揮者になるか死か、というほどの強い思い込みが彼女自身を動かし、周囲を巻き込んでいく。
ニューヨークでの初めてのコンサートにあたってコンサートマスターと衝突したときのシーンが本作品のヤマ場である。仕事として定期的にコンサートをこなしている演奏者にとって、とことんこだわり抜く指揮者は鬱陶しいだけである。ましてや女だ。馬鹿馬鹿しくて言うことなんか聞いていられるかと本音をぶちまける彼に対し、アントニアは自分にとってこのコンサートが唯一であること、演奏者にとって楽器が正確な音を出すことが大切であるように、指揮者にとってオーケストラが楽器であり、それが正確な音を出すことが大切であることを訴える。それはコンサートが常に一期一会であり、定期的に演奏しているコンサートも、やはりひとつひとつが一期一会なのだという意味でもある。
そしてコンサートの観客も、一期一会の演奏を聞いている。そこにコンサートの意義がある。上手くいった演奏もあれば失敗の演奏もあった。もしかしたら今夜のコンサートは素晴らしい演奏かもしれない。コンサート会場にはレコードやCDでは味わえない臨場感がある。
さて、作品にはエルガーの「愛の挨拶」をはじめ有名な曲がいくつか登場するが、曲以上によかったのが主人公に指揮を教えるカール・ムックの人柄である。女性指揮者を受け入れる民主主義者でありながら、指揮者は民主主義ではなく専制君主でなければならないと教える。その教えは、オーケストラは指揮者にとって楽器だというアントニアの考え方に直結する。そして演奏者は指揮者のもとで楽器であることに徹し、一期一会の演奏を行なうことで音楽との新たな出会いを繰り返す。なによりも指揮者アントニア・ブリコがコンサートに一番ワクワクしていたのではないかと思う。その熱量が伝わってくる作品であった。