映画「お坊さまと鉄砲」を観た。
かつて日本各地に「弘法さま」という行事があった。空海が死んだとされる旧暦の3月21日に「弘法大師」の幟や旗を玄関に出している家があって、その家を訪ねて「お参りに来ました」と言い、案内された仏壇や祭壇に向かって小銭を賽銭して「南無・・・・・・」と唱えると、お菓子やお餅がもらえる。本当は「南無」以降の文句もあったはずなのだが、忘れてしまった。
ハロウィンの祭りに似ている。10月31日に玄関に飾りがあったり、かぼちゃの置物が飾られている家を、仮装して訪ねて「Trick or Treat」というと、お菓子がもらえる。悪魔除けの祭りである本来のハロウィンである。弘法さまは、未来永劫に亘って人々の幸せのために祈ると誓って死んでいった弘法大師を讃える祭りだ。
ハロウィンは形骸化して、日本ではバカの集まりになっているし、弘法さまは廃れて、誰も知らない行事になってしまった。しかしブータンでは、敬虔な仏教徒が多く存在し、僧侶は敬意を払われている。少なくとも本作品ではそうだった。
インターネットやテレビが普及して、外国の様子などの情報が流入すると、ブータンは世界一幸福な国ではなくなってしまった。他人と自分を比較する行動は、必ず人間を不幸にする。分断と対立を生むのだ。選挙は他人と他人を比較しているようで、実は、自分と他人を比較しているのが本質である。やはり分断と対立を生む。
その様子を顕著に表現したのが本作品で、親が応援する候補の違いで子供が虐められ、おとなしい住民たちが大声を上げるようになる。本来、仏教は争いと殺生を好まない。敬虔なチベット仏教徒である国王が治世している間は、分断も対立もなく、平和な毎日が坦々と過ぎていた。住民は疑問に思う、どうして選挙が必要なのか?
民主主義は善だと信じてきた人間には、ショッキングな作品である。選挙は分断と対立を生み、政治腐敗と世襲と格差を生む。それは教育と運営の問題だと思っていたのだが、もしかしたら選挙というシステムの本質的な欠点なのかもしれない。欠点だとすれば、それは民主主義の欠点でもある。
都知事選では三井不動産と組んで東京を破壊しようとしている緑の老女が圧勝し、アメリカ大統領選では分断と対立を煽る老人が勝利し、兵庫県知事選では、職員を二人も自殺させた元知事の男がゼロ打ちで当選した。今年の選挙結果は常軌を逸している。
衆愚という言葉が頭に浮かぶ。かつて大宅壮一はテレビの普及を見て「一億総白痴化」と警鐘を鳴らしたが、ブータンでも、インターネットとテレビの普及が、同じような状況をもたらしているのかもしれない。
パオ・チョニン・ドルジ監督は前作「ブータン山の教室」では、辺境の村で暮らす人々の気高い精神性を描いてみせたが、同時に情報過多がもたらす不幸についての危惧も表現していた。本作品の世界観も同じで、コメディ仕立てのわかりやすい作品に仕上げながらも、深い問題意識を表現してみせた。秀作だと思う。