三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ラ・ヨローナ 泣く女」

2019年05月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ラ・ヨローナ 泣く女」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/lloronamoviejp/

 可愛さ余って憎さ百倍という諺がある。多くの人が経験しているであろう言葉だ。人は得てして、愛に見返りを求める。実はその時点で既に愛とは言い難くなっている。見返りを求めるから、それが得られないときに、相手を憎む。別れた男の話をする女性は大抵このレベルだ。男の場合は更に酷い。
 それに対して、何の見返りも求めない愛がある。キリスト教ではそれを神の普遍的な愛であるとし、アガペーと呼ぶようだ。マタイによる福音書には、汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と書いてある。無償の愛どころか、殺されても愛するという壮絶な愛である。
 本作品はキリスト教の国が舞台だが、愛の形は見返りを求める低レベルだ。可愛さ余って憎さ百倍そのままのストーリーである。しかしエクソシスト作品はどうしてもそうならざるを得ないものだから仕方がない。そもそもアメリカはトランプ大統領の口癖でもあるdeal(取引)の国である。無償の愛など最初からないのかもしれない。にもかかわらず大統領の就任式で聖書に手を載せて誓うのは、ほとんどブラックジョークである。

 さて、このジャンルの映画は世界観よりも恐怖と不安を主人公と共有することが大事で、その意味では本作品は成功していると言っていい。自信満々で鼻持ちならないヒロインが徐々に恐怖を増大させていく様子や、周囲の理解も協力も得られないであろう孤絶感が、観客の恐怖感を広げていく。現実にはありえないだろうと思いつつも、科学で解明できていないことがたくさんあるから、あるいはこういうことも起こりうる。未知に対する恐怖だ。
 観ている間はかなり怖い作品だが、観終わると不思議な清々しさと、ある種の達成感がある。よくできたホラー映画に共通の特徴である。


映画「幸福なラザロ」

2019年05月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「幸福なラザロ」を観た。
 http://lazzaro.jp/info/
 新約聖書の中のルカによる福音書(ルカ伝)とヨハネによる福音書(ヨハネ伝)の中に、ラザロが登場する。
 ルカ伝のラザロは全身デキモノに覆われた乞食で、金持ちの家の前に座っておこぼれを待っている。ラザロも金持ちも死んで、黄泉の国で苦しむ金持ちが見上げると、ラザロはアブラハムの懐にいる。
 ヨハネ伝のラザロはマリアとマルタの姉妹の兄弟で病人である。死んで墓に入れられてから四日後にイエスが蘇らせた。そして病気も治ってイエスと一緒に食事をする。一般にこちらのラザロが有名で、死者の蘇生実験の映画「ラザロ・エフェクト」は記憶に新しい。
 本作品のラザロは聖書のラザロと違い、至って健康で働き者である。そしてヨハネ伝のラザロと同じように皆に好かれている。それはラザロが決して人に反対せず、相手の願いを叶えようとするからである。口答えのしない働き者はとても便利な存在だ。それは誰もがラザロを下に見ているということでもある。しかしラザロ自身はそんなことを意に介さない。

 この映画を観て、ドストエフスキーの小説「白痴」を思い出した方はいるだろうか。私にはラザロがムイシュキン公爵に重なって見えて仕方がなかった。小説のヒロインであるナスターシャ・フィリポヴナ・バラシコワは、立ち去り際に主人公に声を掛ける。
「さようなら、公爵。初めて "人間" を見ました」
 その美貌を金持ちに利用されて散々酷い目に遭ってきた彼女にとって、無私無欲のムイシュキン公爵は聖者のようであったに違いない。ドストエフスキーはそこを聖者ではなく "人間" と表現することで、他の登場人物たちがどれほど人でなしかを浮かび上がらせた。
 本作品の登場人物たちも、大人から子供まで、負けず劣らず人でなしばかりである。それでもラザロは幸福だと、本作品はタイトルで主張する。実存としての人間の幸福は、置かれた状況にではなく、自分自身の心の内にある。ムイシュキン公爵がそうであったように、ラザロもまた人を疑わず、そして人を恐れない。疑うことと恐れることは表裏一体だ。人が自分を騙し傷つけようとしているのではないかと疑うところに恐怖が生じる。疑わなければ恐れることもない。そして不安もない。不安と恐怖から解放されること、それは確かに幸福以外の何物でもない。
 ラストシーンも「白痴」と似ている。ムイシュキン公爵は精神病院へ戻されたが、ラザロはどこに還って行ったのだろうか。
 人々からいいように利用され続けたラザロだが、疑うことを知らなければ、利用されたと思うこともない。それは簡単な生き方のように見えて、人間にはほぼ不可能な生き方である。ラザロの人生は稀有な人生であり、結末の如何にかかわらず、人類で最も幸福な人生であった。この作品の意義はとても深くて大きいと思う。


映画「誰がために憲法はある」

2019年05月14日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「誰がために憲法はある」を観た。
 http://www.tagatame-kenpou.com/

 日本国憲法を押し付けられた憲法と言う人がいる。しかしピタゴラスの原理やアインシュタインの一般相対性理論を、押し付けられた原理だとか、押し付けられた理論だとか言う人はいない。日本人が考えたことだけが正しい訳でもないし、日本人にあっている訳でもないのだ。

 日本国憲法のもとになったのはポツダム宣言である。ポツダム宣言は、ナチスドイツが降伏したあとで、その後どのように戦争を集結させるかについて宣言したものだ。そこには、最新兵器を用いた近代戦争である第二次世界大戦が世界中に大きな被害をもたらしたことに対する反省があり、人類として二度と戦争の惨禍を起こしてはならないという決意がある。
 日本国憲法で最も大事なのは前文で、平和主義と国民主権、福利の享受者が国民であること、それに基本的人権を明記している。アメリカの憲法に倣っているのかもしれないが、非常に格調の高い文章であり、日本が世界に誇れる素晴らしい憲法前文である。
 多くの人々が多くの人々に「愛している」と言う。「愛している」という言葉が同じであることを問題にする人はいない。誰が誰に向かって言うのか、どのような覚悟でそれを言ったのか、言われた人がどのように受け止めるのかが言葉の本質である。憲法の字面を挙げて押し付けという人は、憲法の本質を知らないのだ。

 渡辺美佐子さん演じる「憲法くん」によれば、日本国憲法が制定されたことを、日本国民はとても喜んだそうである。戦争が終わって、これまでは専制と隷従の世の中だったのが自分たちが主権者であるとなった訳だから、喜ぶのは当然だ。戦争は違法行為であり、戦争をする人は犯罪者なのだ。戦争は断固として拒否しなければならない。戦争の惨禍を知る人々にとって、どれほどこの憲法が有難かったかがわかる。
 これからは自由の恩恵を受け、国のためではなく自分のために生きていくことができる。自分の自由のために他人の自由、他国の自由を尊重し、協力して平和な世界をつくる。そのように決意したという言葉を、戦争の被害を受けた日本国民は厳粛に、そして大いなる喜びを持って受け止めたのだ。当時の国民にとって憲法は、天から授かった宝物のようであったに違いない。

 映画を鑑賞したその夜、日本維新の会の衆議院議員丸山穂高が、北方領土について「戦争で島を取り戻す」と発言したニュースがあった。戦争を知らない35歳の東大出の官僚あがりの議員である。憲法前文を読んだことはないのだろうか。戦争の惨禍がどれほど恐ろしいものであったのか、憲法前文に世界中のどれほどの反省が込められているのかを知っていれば、もしかしたらこのような発言はしなかったかもしれないが、そこは本人以外にはわからない。

 ポレポレ東中野は年配の人たちで一杯だった。若い人たちは、こういう映画に関心がないのだろう。残念に思いながら、渡辺美佐子さんが朗々と読み上げる憲法の前文を聞いているうちに、自然と涙が流れた。憲法を日本語として作成した人々は、敗戦の忸怩たる思いを捨て、日本人という変なプライドも捨て、その他あらゆるこだわりも捨てて、心を穏やかに澄みわたらせてから作成したに違いない。憲法の精神を理解する人が多いほど、この国が戦争を起こす危険は小さくなると思う。

 渡辺美佐子さんは、原爆の朗読会を続けながら訪れた広島で、敗戦の前の同級生水永龍男くんの集団墓碑に花を手向ける。老いたその姿は、かつて戦争によって断ち切られた淡い恋に、心密かにときめいていた少女が蘇ったようだ。その美しい嘆きに誰もがもらい泣きするだろう。日本中に観てほしい、素晴らしい映画だった。


映画「Avengers Endgame」

2019年05月14日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Avengers Endgame」を観た。
 https://marvel.disney.co.jp/movie/avengers-endgame.html

 キャプテン・アメリカがラストシーンで発した「Assemble」という台詞が結局この作品のすべてである。もちろんパソコン用語ではなく、ヒーローがみんな集まったという意味だ。要するに力を合わせれば勝てるみたいなアホくささである。こういう単細胞ぶりがディズニーの真骨頂だ。
 各シリーズを見ていないとよくわからないところはあるが、前作の「キャプテン・マーベル」を見ていたので、キャプテン・マーベルだけは全宇宙の正義の味方で忙しいことはわかった。それに対してアベンジャーズ軍団はもっぱら地球での戦いに専念する。宇宙担当はキャプテン・マーベルだけで、地球以外での悪との戦いがどうなっているのかは不明のままだ。

 プレイステーションで「天誅」というタイトルのゲームがある。クリアすると言語を選べるようになっていて、英語を選ぶと「avenge」という単語が何度か出てくる。「仇を打つ」という意味の単語だが、日本語の読み方で「あだ」と「かたき」では若干意味が異なる。「恩を仇で返す」というときは「あだ」と読む。親を殺した相手は「親のかたき」である。avengeもrevengeも恨みのある相手をやっつけようとする点では意味はあまり変わらない。アベンジャーズがavengeするためには、被害に遭うのを待たねばならない。先手を打ってやっつけたらavengeにならないからだ。
 そして被害に遭うためには加害者が必要で、例によって典型的な加害者が登場する。鼻持ちならないプライドの持ち主で、自分のプライドのためだけに他者を傷つけても意に介さない、家族愛も何も持ち合わせていない冷血タイプである。子供が観るからわかりやすくする必要があったのだろうが、大人が見ると悪役としてのリアリティに欠けている。悪役にも葛藤はあるし、心の拠り所も必要だ。悪役の手下たちにも同様のことが言えるが、そんなことはお構いなしで、画一的な手下が次々に殺される。

 ただCGと音は相当の迫力で、この作品ばかりはIMAXの3Dで観てよかったと思う。アホな世界観はいったん横に置いて、アクション主体の映像と音楽を楽しむにはとてもいい作品である。それにしてもロバート・ダウニー・ジュニアは麻薬で逮捕されたりしているのに、ディズニー映画に主役として出ているのは、流石にアメリカは作品と俳優を区別するだけの分別を持ち合わせている国である。自分と違う人格をリアルに演じるのは精神的負担が大きい。覚せい剤でキメセクをやっている連中は別として、俳優が薬物やアルコールに依存し勝ちになるのは必然だろう。特に一匹狼タイプの俳優はそうなりやすい気がする。
 ダウニー・ジュニアをはじめとして、俳優陣の演技は相変わらず見事である。ロバート・レッドフォードが出ているのはしっかり見たが、ナタリー・ポートマンの名前をクレジットに発見して驚いた。これだけの俳優たちがディズニーみたいなありきたりの世界観のお手軽映画に出るのはなんとももったいない気がするが、これも「Assemble」だ。集合したら外側だけを見ることしかできなくなり、内面を掘り下げるのは無理である。演じるほうも観るほうも、頭をカラにして作品を楽しむのがいい。3時間はまったく長く感じなかった。


映画「The Quake」

2019年05月14日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Quake」を観た。
 http://www.interfilm.co.jp/thequake/

 大変に怖かった。とにかく怖かった。人智を超えた圧倒的な力の前に、生身の人間のなんと無力なことか。

 地球の内部でマントル対流が起きていて、マントルの上に乗っている地殻は必然的に対流に引っ張られて動き、複数の地殻の相互関係で地震が起きるというメカニズムについては聞いたり読んだりした。そしてメカニズムが分かっても個別の地震がいつどこで起きるのかは予測できないということも、あちらこちらで見聞きした。
 「天災は忘れた頃にやってくる」という寺田寅彦の言葉はあまりにも有名である。被害に遭って次の被害に備えているうちは次の天災は発生せず、被害を忘れて用心を怠っているときに限って発生することが多く、結果として被害を甚大にしてしまう。
 被害を大きくする原因には正常性バイアスもある。自分だけは大丈夫と思ってしまう心理、あるいは起きていることが大したことではないと見くびってしまう心理のことだ。災害時には悪者扱いされる正常性バイアスだが、日常生活で簡単にパニックに陥ったりしないためのブレーキの役目を果たしていると思う。例えば猫が何かに驚いて道路に飛び出して自動車に轢かれる例はよくあるが、人間では滅多に起きない。正常性バイアスは日常生活に必要な心理なのである。
 しかし災害時には逃げ遅れや判断ミスの原因となる。東日本大震災で避難先を間違えた教師たちがそのミスと見苦しい弁解を責められていたが、もし自分が彼らの立場にあったとしてら、生徒たちを正しく安全な場所に誘導できたかどうか。教師たちの行為が意図的であったなら責められて然るべきだが、正常性バイアスが働いたミスならば、必要以上に非難されるべきではない。

 さて本作品はノルウェーの首都オスロを舞台に、人々が巨大地震に遭遇する映画である。文明の象徴みたいな巨大なビルも、地震のエネルギーにはマッチ箱みたいに潰れてしまう。動物はいち早く察知して逃げ出すが、彼らの逃げる先に安全がある訳ではない。
 家族を描き人間を描いてはいるが、本作品はヒューマンドラマではない。寧ろ自然災害を前にした人間の無力さを強調し、創造と破壊を繰り返す地球の、あるいは宇宙の不条理をあぶり出す。
 恐ろしい場面の連続は、蜘蛛の糸よりも頼りない生命の糸の、あまりの細さに気づくことに由来する。死は日常的に我々の前に口を開いて待っている。今日、何を選択するか。今、何を選択するか。人が地球上で生きているということはどういうことなのか、改めて深く考えさせられる作品であった。


映画「愛がなんだ」

2019年05月09日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「愛がなんだ」を観た。
 http://aigananda.com/

 若者言葉が苦手である。品がなくて遠慮がなくて優しさがない。私見ではあるが、品というのは自立して他者に頼らない様子を言う。遠慮とは相手の存在を尊重することだ。優しさは寛容と親切の意味である。つまり若者言葉というのは、精神的に他者にもたれかかりつつも相手の立場を踏みにじる、不寛容で冷酷な言葉なのである。
 しかし若者言葉を全否定しているわけではない。人は成長するに連れて視野を広げていくが、視野が狭いうちは自分本位の精神状態であり、使う言葉も必然的に自分本位だ。赤ん坊は周囲の状況などお構いなしに泣き喚くし、小さな子供は時宜を弁えずにはしゃぎ回る。それが人間関係を経験し、ときに修羅場をくぐっていくうちに、少しずつ若者言葉を卒業していく。それが分かっている人にとっては、赤ん坊が叫んでも子供が喚いても若者が無礼でも、さほど気にすることはない。単なる雑音に過ぎないのだ。

 という訳で、本作品は赤ん坊が泣いているような映画だ。世界が狭く、周囲の人間関係に異常に影響されてしまうのは、相当に精神年齢が低いと言わざるを得ない。経済的に自立した生活を始めると、衣食住を確保しなければならない絡みで、人間関係は一気に複雑になる。その部分をバッサリと切った上で類型的な人間を排除し、典型同士の非日常的で危うい人間関係だけに焦点を当てる。
 少年少女のような純粋な感情のぶつけ合いを大人同士のドラマで観るのはかなりつらい。子供だからまだ自分なりの価値観はなく、世の中の一般的な価値観に流される。見た目を気にするし、幼稚なプライドもある。うわべだけのものの見方を排して、人の本質に迫ることができれば人間関係も変わるだろうが、いかんせん精神が幼すぎて、何も変わらないままに物語が過ぎていく。だから唯一大人の視点を持つナカハラの存在が浮き上がる。この人を高く評価する人が多いだろうが、他の登場人物が子供すぎるから目立っているだけである。
 最初からずっと雑音を聞かされたような、そんな映画であった。役者陣は熱演であったが、世界観が狭すぎて息苦しい。同じように世界が狭い人だけに共感されるだろう。平日の夜の渋谷の映画館は満席で、特に若い女性が多かった。中には泣いている人もいて、なるほどと納得したのである。