三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Happy Death Day 2U」

2019年08月09日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Happy Death Day 2U」を観た。
 http://tohotowa.co.jp/news/2019/07/hdd2u0701

 TOHOシネマズ日比谷はなるべく避けたい映画館である。映画館そのものは座席の勾配が大きくて前の人の頭が邪魔にならないから快適である。しかし東京ミッドタウン日比谷というビルが最悪なのだ。行ったことがある人なら同感してくれると思うのだが、エスカレータの動線が悪い。上の階に上がるたびに回廊をぐるっと回らないと、その上の階に行くエスカレータに乗れない。下に降りるときも同様である。ならばエレベータを使おうとボタンを押すが、これがまったく来ない。しかも地下一階から乗る人がたくさんいるので混んでいる。乗れないことさえある。知っている人は地下一階に降りて、そこからエレベータでTOHOシネマズのある4階に昇る。映画終わりは当然混んでいるのでやはり乗れないことがある。エスカレータはぐるぐる回らないと降りれないからガラガラだ。いっそのこと、バイオハザードでエイダ・ウォンが使っていたワイヤーガンでもあれば、4階から一気に1階に降りれるのになどと考えてしまう。三井不動産は商業施設のららぽーとでは通路が広くて動線のいい設計にしているのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。ほぼ設計ミスである。

 さて本作品は東京ではこのTOHOシネマズ日比谷でしか上映していないから、やむを得ず設計ミスのこのビルに入った。エスカレータは使いたくないからエレベータを待つが、なかなか来ない。この時点でかなり気分が悪い。これほど人を不機嫌にさせるビルはない。
 しかし映画を観終えるとミッドタウンのアホな設計などどうでもよくなってしまった。前作と同様に本作品も傑作である。前作にあった説教臭さはなくなり、代わって時間と空間に関する相対理論的、量子力学的な考察が紹介され、もしパラレルワールドみたいな多重世界が存在して、異なる過去と未来を選べるとしたらどうするかという、SF的な問いかけがなされる。実に興味深い設定だ。タイトルの2Uはそういう意味だと気づいて製作者の深謀遠慮に感心した。最初から壮大なアイデアのSF映画二部作として捉えるのが正解なのかもしれない。

 主人公は前作で既にエゴイストキャラから脱しているので、本作では多様性を受け入れる寛容さと他人を傷つけまいとする思慮深さを備えている。愛すべきキャラである。そして前作と同様にドタバタ喜劇を繰り広げる。この辺りの展開はハリウッドの得意芸で実に卒がない。
 前作を観ていないと面白さは半減するのでご注意いただきたい。前作を観てから本作品を観ると、もう一度前作を観たくなる。それは主人公の人間的な魅力によるところが大きい。彼女は最初から愛すべきキャラとして造形されていたのだ。


映画「Une annee polaire」(邦題「北の果ての小さな村で」)

2019年08月08日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Une annee polaire」(邦題「北の果ての小さな村で」)を観た。
 http://www.zaziefilms.com/kitanomura/

 グリーンランドが世界最大の面積の島でデンマーク領であることは世界地図の(デ)のマークで知っていたが、ツンドラの寒い島は想像するだけでつらそうで、行きたいなどとは露ほども思ったことがない。
 しかし本作品を観てオーロラや山脈、氷原のシロクマ、フィヨルドの海岸近くに姿を見せる鯨などの光景や、冷えて澄んだ空気、自然との直接的な関わり合いなどを想像すると、一度くらいは行ってみてもいいかなという気になる。
 舞台は人口80人の小さな村だが、本作品を観る限り、封建的でも偏狭でもなさそうで、いわゆるムラ社会とは一線を画している。移住者に地域のルールを押し付けたり、行事への参加を強制したりすることはないのだ。
 ただ、移住者が地元の生活や文化を受け入れようとしない限り、受け入れられることはない。デンマークの役人のおばちゃんはグリーンランド語なんか覚える必要はないと征服者の居丈高な目線で語り、自分はそれで上手くいったと一元論を展開するが、地元民と触れ合い、地域に受け入れてもらいたい主人公は、それが間違った考えだということにすぐに気がつく。グリーンランド語を学ぶようになると、地元民はたちまち心を開いてくれる。それから後は教師として子供たちを教えるより、教わることのほうが断然多くなる。それで報酬をもらって生きていけるのであれば、これほど幸運なことはない。
 グリーンランドの生活は質素でストイックで都会的な利便性はまったくないが、見栄を張ることも嘘をつくこともない。ムカつく人間に頭を下げることもない。観念的な苦痛や不安や恐怖とは無縁の生活である。見て聞いて感じたものがすべてなのだ。美しい思い出は誰にも汚されることなく、美しいままだ。多分都会人はこの生活に耐えきれないだろう。しかし習うより慣れろという諺もある。一年間でも暮してみたら、逆に都会の生活に戻れなくなるかもしれない。どっちが人間らしい、幸せな生活なのだろうか。
 デンマーク語とグリーンランド語のみ使われる作品だが、「Une annee polaire」というタイトルのフランス映画である。訳すのは難しいが「北極の一年」みたいな感じだろうか。フランス映画らしく、実存としての人間にとって環境は如何にあるべきなのかと問いかける哲学的な佳作である。


映画「SIR」(邦題「あなたの名前を呼べたなら」)

2019年08月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「SIR」(邦題「あなたの名前を呼べたなら」)を観た。
 http://anatanonamae-movie.com/

 8年前に放送された「家政婦のミタ」というテレビドラマがあった。松嶋菜々子が怪演した主人公は、長谷川博己演じる一家の主人からもその子供たちからも「ミタさん」と呼ばれ、それなりに人格を重んじられていたと思う。家政婦は英語でhousekeeperだが、本作品の主人公ラトナは召使い、servantである。servantには奴隷という意味もあって、人格は認められない。ちなみに公務員はpublic servantである。つまり公僕だ。私を捨てて公のために尽くさねばならない。にもかかわらず自分たちを支配階級と勘違いして、国民のことを働いて税金を納めるだけの奴隷のように考えている官僚や役人が多いような気がするのは当方だけだろうか。
 相手役のSIR、つまり旦那様は驚くほどの人格者である。自由平等博愛の精神をそのまま体現したような人で、流石にここまで出来た人にはお目にかかったことがない。これほどの人物が登場するのであれば、邦題のタイトルは原題「SIR」のまま「旦那様」でよかったと思う。
 秋元順子が歌った演歌「愛のままで」の歌詞に「ただあなたの愛に包まれながら」という一節がある。愛されてさえいれば幸せという女心は万国共通なのだなと改めて思う。
 インドはラマヌジャンという天才数学者を輩出した国であり、IT先進国なのだが、意外に不自由な国でもある。日本のインド料理店の従業員はたいていネパール人という噂がある。ネパール人はインド料理を修行して日本で店を出す自由があるが、カーストの階級が下のインド人にはビザその他の自由があまりなくて、日本で店を出すのはかなり難しいらしい。華僑やアメリカン・ドリームのような逆転の希望がないのだ。
 太古の昔にはカーストによる差別に反対してゴータマが仏教を興したが、ヒンドゥの偏見を無くすことは出来ず、雨降って地固まるみたいに逆に偏見を強める結果となってしまった。人間は弱くて、仏教が求める、煩悩を超越する強くて独立した精神性という理想に耐えられない。だからイスラム教やキリスト教に走る。
 カーストの意識が根強く残る農村では、生まれた瞬間に一生が終わっている。しかし都会に出れば、自由に生きられる可能性がある。旦那様の婚約者の「ここはムンバイよ、好きなように生きられる」という台詞が耳に残る。
 農村の精神性が強く残ったままの主人公は、何もかも捨てて旦那様の愛を受け入れる選択がどうしてもできない。しがらみばかりが網のように心を蔽ってしまう。昔の芸者のように泣いて別れる運命なのだ。しかし女心の残り火はいつまでも消せない。その切なさが本作品の芯である。儚い恋はいつの世も麗しい。バスや列車の車窓から眺めるインドの景色も、いくつかのバリエーションのある主人公の衣装も美しく、ひとつひとつのシーンが心に残る宝石箱のような映画である。


芝居「フローズン・ビーチ」

2019年08月06日 | 映画・舞台・コンサート

 日比谷のシアタークリエで芝居「フローズン・ビーチ」を観た。
 出演者の中でもシルビア・グラブとブルゾンちえみの芝居は面白く、鈴木杏の元気一杯の演技はとてもよかったのだが、朝倉あきが体調不良で交代したのは返す返すも残念である。
 芝居そのものはというと、そもそも脚本にかなりの無理がある。芝居はもちろん典型的な人物が典型らしく振る舞うことでダイナミズムが生まれて物語を進めるエネルギーとなるものだが、不自然すぎるリアクションが続くとリアリティが欠如してしまう。笑える場面はいくつかあってそれなりには楽しめたが、心に残るものが何もなかった芝居だった。


映画「Happy Death Day」

2019年08月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Happy Death Day」を観た。
 https://www.universalpictures.jp/micro/happydeathday

 かなり楽しめた。トム・クルーズ主演の「Edge of tommorow」(邦題「オールユーニードイズキル」とほぼ同じで、殺されるたびに学習して対策を立てるがなかなかうまくいかないというプロットである。
 本作品の主人公はトム・クルーズほどタフでもなく戦闘力も殆どないが、等身大の女子大生としてのリアリティがある。四角四面で権威主義の軍隊とは違って大学の女子寮と男子寮の住人たちは軽薄で浅薄な人間ばかりだから、肩の力を抜いて鑑賞できるところがいい。
 道徳的というか説教臭いシーンもあるが、ダイエットしてモテ女子を目指しつつセックスを楽しみ大学生活を謳歌するアホな女性大生が何度も死んでいくうちに世界観に目覚めていくプロットはとても優れたアイデアだと思う。もう一度観たいかというと、ぜひ観たいと答えるであろう稀有な作品である。傑作と言っていい。すでに公開されている続編「Happy Death Day 2U」も観ようと思う。


映画「Fast & Furious: Hobbs & Shaw」(邦題「ワイルド・スピード スーパーコンボ」)

2019年08月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Fast & Furious: Hobbs & Shaw」(邦題「ワイルド・スピード スーパーコンボ」)を観た。
 https://wildspeed-official.jp/

 この手の映画を見るたびに、アメリカのアクションスターの格闘センスやアクロバット能力の高さに驚かされる。彼らはよほどの運動神経の持ち主でなければできない演技を楽々とこなして見せる。本作品の主役たちはその代表選手みたいなもので、超人的だがリアルという難しいアクションを息も乱さないで演じ切る。
 本作品はジェイソン・ステイサムが高級車を運転するのでどうしても「トランス・ポーター」を思い出してしまうが、カーチェイスのクールさは変わらない。そして何度か出てくる「Hang on!」という台詞には痺れる。
「つかまってろ、俺がなんとかする」と日本語で冗長に言うよりも、ひと言「Hang on!」のほうがより多義的であり、優れている。英語表現の中にはたまに日本語よりもしっくりくる言葉がある。日本語にも「もったいない」のように他言語では表現できない言葉があるから、このグローバル化の時代ではどの言語であろうと、表現しようとしていることに最も適した言葉を使えばいい。
 バネッサ・カービーがロシア語を話していたのは悪の元締めの居場所をロシアにしたからだろう。言語はコミュニケーション手段だからどんなに適した言葉でも、通じなければ意味がない。しかし敢えてロシアにしなくてもよかった。トランプに阿ったのだろうか。

 自動車もオートバイもハイテクが沢山登場する本作品も、世界観は相変わらずの家族第一主義である。家族主義はハリウッドB級映画のパラダイムだから仕方がない。アメリカは移民の国だから、国まるごと根無し草と言ってもいい。だから拠り所としての権威と、地位としての権力と、社会的信用としてのカネを追求する。成功すれば大統領にだってなれる。
 しかし失敗し、自分の可能性の限界を知った人間は家族主義者となり、家族こそが自分のレーゾンデートルだと信じ込む。そうしないと生きていけないからだ。家族主義が現代アメリカのパラダイムだということは、大多数の人間が家族主義者であることを示している。そして家族に幻滅してアメリカンドリームにも破れた少数の人間は自殺するか、銃を乱射するか、あるいは長い孤独に耐えて生きるしかない。

 作品としては面白いし楽しめるのだが、世界観が薄っぺらだから、その向こうにアメリカの病巣が透けて見えるようだ。