三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society」(邦題「ガーンジー島の読書会の秘密」)

2019年09月09日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society」(邦題「ガーンジー島の読書会の秘密」)を観た。
 http://dokushokai-movie.com/

 ミステリー仕立ての上質な作品である。第二次大戦後のロンドンでは復興めざましく建物は修理や新築が相次いで綺麗なペンキも塗られているが、人の心の中に残る戦争の惨禍の傷跡はまだ開いたままだ。
 主人公ジュリエットもそんなひとりで、肉親を失った以上の喪失感を心の奥に隠しつつ、明るく強気に振る舞う。アメリカ兵の恋人は型にはまった幸せが望みであり、ジュリエットのうわべだけを愛し、気が利いたふうな社交界の付き合いに彼女を引き込み、その生活が幸福で楽しいものだと信じている。
 いろいろなことがうまくいかない彼女のもとに、ある偶然から住所を知った男性からの手紙が届く。聞いたこともないガーンジーという島からの手紙だ。しかしそこにはどこか彼女を惹きつけるものがある。そこで彼女は浅薄で哲学のない彼氏を残してガーンジー島に出かけるのであった。
 物語の設定は前半でほぼ出来上がっていて、あとはパズルのピースをはめ込むように進んでいくシーンを気軽に楽しめる。じゃがいもの皮のパイは、想像しただけでとんでもない不味さだろうし、多分体にもよくない。イギリス料理の不味さは世界的にも有名だから、そのあたりのアイロニーも感じさせる。指輪や勲章などのキーアイテムは説得力を持って登場し、使われる。主人公が無意識に予期したとおり、ガーンジー島には彼女の心に空いた穴を埋める何かがあった。
 編集者のシドニーや手紙を送ってくれたドーシー、そして郵便局の少年など、魅力的な人物が登場する。それぞれの造形はよくできていて、みんなエネルギーに満ちている。多くの犠牲を払った戦争の傷を抱えつつ、それを癒やしながら前進していく彼らの姿に、ジュリエットは大変に勇気づけられ、熱が伝染るようにエネルギーが満ちてくる。原題はとても静かなイメージだが、実に力強い人間ドラマである。


音楽劇「人形の家」

2019年09月04日 | 映画・舞台・コンサート

 六本木の俳優座劇場で土居裕子が座長を務める音楽劇「人形の家」を観劇。土居裕子の歌が目当てで、期待通りの伸びやかな歌を聞くことが出来て非常に満足したが、最後の場面で女の精神的な自立というイプセンの意図したテーマが前面に押し出され、土居裕子演じるノーラのキリッとした厳しい表情がそのテーマを具現化しているようで、とても印象的な作品となった。

 中島みゆきの「かもめはかもめ」の歌詞に「あなたの望む素直な女にははじめからなれない」という一節がある。「はじめから」がポイントで、好かれようと背伸びをしたり無理をしたりしていたのを、ある日気づいて元の自分に戻るのだ。

 ノーラもやはり夫ヘルメルが望む可愛い妻を演じてきたが、いま自分に返る。自分に返るというのは我に返ると同じ意味で、覚醒するということだ。女の自立は女自身の覚醒からはじまる。

 土居裕子さんは御年60歳。ノーラは多分30歳くらいだから、双眼鏡でアップの表情を見ると少し痛々しい部分もあったが、可愛らしい演技は健在。喉はまったく衰えておらず、ソプラノの美声は聞いていて心持ちがよろしい。実に素晴らしい音楽劇だった。


映画「Dilili a Paris」(邦題「ディリリとパリの時間旅行」)

2019年09月04日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Dilili a Paris」(邦題「ディリリとパリの時間旅行」)を観た。
 https://child-film.com/dilili/

 ガスライターで有名なDupon社は、日本だとデュポンと表記され発音されることが多いが、フランス語の発音はほぼジュポンである。本作品のヒロインであるDililiは映画を観ればすぐに解るが、ディリリよりもジリリに近い。どうも日本では発音よりもスペルを重んじる傾向があるようだ。
 さてジリリはニューカレドニア出身でフランス語が堪能な推定10歳の有色人種の女の子だ。現地では肌の色が薄いからと差別され、フランスでは肌の色が濃いと差別される。しかし文化人たちはジリリの肌の色を個性として受け入れ、寧ろ褒める。

 本作品は、自分を卑下せず社会と積極的に関わろうとする女の子の勇気を描く。登場する有名人は画家、科学者、彫刻家、皇太子、女優、歌手、作曲家、それに小説家など、とても豪華である。
 文化は常に善であり、不自由や束縛と戦わなければならない。二十世紀初頭のパリは、文化人たちの熱気に噎せ返るようである。そんなふうな熱に煽られたかのようにジリリは大活躍する。
 マジカルな奇跡は起きないし、冒険も地味で日常的ではあるが、どこかワクワクする。権力の腐敗や地政学的な力関係もさり気なく描かれていて、ディズニーは勿論、日本のアニメとも一線を画す芸術的な娯楽作に仕上がっている。兎に角観ていて楽しい作品だ。


映画「日本鬼子(リーベンクイズ)」

2019年09月03日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「日本鬼子(リーベンクイズ)」を観た。
 https://eiga.com/movie/40460/

 大抵の方はご存知だと思うが、知らない人のために念の為。タイトルの「日本鬼子」は中国語で「日本の悪魔」を意味する。リーベンクイズは「日本鬼子」のピンイン=ri ben gui zi である。

 関東軍をはじめとする日本軍が中国で非道の限りを尽くしたことは、本多勝一の「中国の旅」を読んである程度の内容は知っていた。しかし実際に手を下した本人たちの証言は文字と写真で見るよりずっと生々しい。恥も外聞も捨て世間からの非難も右派からの弾圧も恐れずに証言したことは、非常に勇気のあることである。

 戦争時は虐殺、強姦、略奪、放火を繰り返した人たち。病気の父親の目の前で女を強姦し、強姦した女を井戸の中に捨て、追ってきた子供が母を追って井戸に飛び込むと、そこに手榴弾を投げ込む。別の家では病人だけは助けてくれと泣いてすがる農民を足蹴にし、火のついたコウリャンを大量に家の中に投げ込んで、扉に鍵をかける。中の病人ともども蒸し焼きである。
 捕まえてきた中国人を縛り付けて初年兵の銃剣の練習台にする。本物の人間である。最初は人を殺すことの大きな壁に阻まれるが、何人も殺すうちに人道を忘れ、日常茶飯事のように人を殺せるようになる。新しい刀が届いたからと言って、穴を掘った横に中国人の首を出させて一刀両断する。
 あるいは中国人に全身麻酔を吸わせて生きたまま生体実験をする。赤痢菌、ペスト菌などを投与したり、血管に空気を注射してどれぐらいで死ぬか時間を測るなど、やりたい放題である。麻酔が切れたときの想像を絶する痛みを想像して、こちらが慄えてしまう。
 人間のすることと思えない残酷冷血なことばかりしてきた日本兵に対し、周恩来率いる中国政府は、彼らも人間であり人権があるから、大切に扱うようにと通達を出すのである。新約聖書の「マタイによる福音書」の中に「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とある。そんなことができる人間がいるものかと思っていた。しかし周恩来は日本人の残留戦犯たちに食事を与え、衣服を着せ、寝る場所を用意する。
 衣食足りて礼節を知るという。誰もが知る中国の諺だ。食欲と性欲は現地調達であった飢えた狼のような日本兵も、平和で衣食住の足りた生活を送る中で、次第に人間性を取り戻し、それを待ってから中国は戦争裁判をする。日本人の戦犯たちは深い反省の心で正直に証言し、中には自ら極刑を望むものもいた。しかし死刑や無期懲役の判決はなく、禁錮10年か20年の刑、そしてその多くは満期前に釈放された。
 本作品で加害の状況を生々しく語るのは、そうした中国の人道的な扱いに浴してきた人々だ。帰国して中共に染まったと非難されながら、鬱々とした人生を生き、漸く本当のことを語りはじめた。残り少ない人生を嘘のまま終わりたくなかったのだろうか。彼らが語りはじめても、日本兵がそんな酷いことをしたとは家族の誰も信じなかったし、いまさら話さなくてもいいだろうと諌めたが、本人はどうしても語りたかったのだ。

 軍隊は中学校や高校の部活と同じ精神構造である。体育会系の部活の目的は試合に勝つことであり、そのための厳しい練習もするが、一方では先輩が後輩をいじめる階級社会でもある。悪ふざけに後輩を巻き込み、ときには違法行為や犯罪行為にも平気で踏み込む。野球部員が喫煙したとか飲酒したとか、屡々新聞に載るが、あれはごく一部、氷山の一角だ。いまでも沢山の子どもたちが先輩から万引やいたずらを命じられているだろう。
 子供は価値観の相対化を知らない。言われたことを鵜呑みにしてしまう。試合に勝たなければならないと言われればそのとおりだと思う。どうして試合に勝たねばならないのか、どうして試合をしなければならないのかという疑問は持たない。子供は孤独に弱く、人間関係が壊れるのを嫌う。だから理不尽と解っていても先輩の命令に従うのだ。その先輩はと言えば、階級社会の上位にいることを楽しみ、理不尽な命令をして喜ぶ。コーチや監督が何も言わないのは、彼らも同じ人種だからである。他の国民はどうだか知らないが、少なくとも日本人は組織の大義名分をかさにきるクズが大量に存在する。
 オリンピックで金メダルが目標と語る選手を応援するのはいいが、その選手を頂点にした巨大なヒエラルキーの下の方は、コーチや監督や先輩が絶対という階級社会の歪みに喘ぐ子供たちである。その子供たちは、より弱い子供たちをいじめ、万引をさせたり少女買春をさせたりする。日本軍が勝った勝ったと大騒ぎしている陰で、中国で日本兵が非道の限りを尽くしていたのと同じ構図だ。
 大学のアメリカンフットボールで敵のクオーターバックにルール違反のタックルを仕掛けた選手がいた。コーチの命令には逆らえないという雰囲気。個人よりもチームという大義名分、それに封建主義。日本の学校の部活にはこういった精神性がいまも色濃く残っている。それは再び外国に行ってその地の無辜の女子供を強姦し殺戮し略奪し焼き尽くす精神性である。人間を個人として尊重する日本国憲法の精神とは正反対だ。それがいまの日本の現実であると思うと、絶望感しか残らない。


映画「引っ越し大名」

2019年09月01日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「引っ越し大名」を観た。
 http://hikkoshi-movie.jp/

 楽しい映画である。役と役者の相性がいいから物語の設定が無理なく頭に入って来る。プロットが解りやすくて冒頭を少し観れば凡その結末まで見通せるので、あとはひとつひとつのシーンを愉しめばいい。水戸黄門みたいなものだ。

 J-POPを聞くことがないから星野源はテレビドラマ「逃げ恥」で初めて知った。気が弱くて優柔不断だが、仕事では非常に優秀なSEの役で、役にピッタリ合った演技ができていた。本作品で演じた主人公も、「逃げ恥」と同じような感じの性格の役である。だからまたしてもピッタリとはまっていた。今後は流石に二枚目の役は難しいだろうが、普通に見えてどこかエキセントリックな人物なら、善玉でも悪玉でも上手に出来そうである。
 高橋一生がこういう豪傑と言うか、いたずら好きのガキ大将がそのまま大人になったような役を演じたのははじめて観た。ボソボソと台詞を喋るイメージだったのに、本作品の鷹村の役ではこれまでの演技とは打って変わって野太い声が出ているし、動作も大きい。泣くのも笑うのも酔っ払うのも豪快だ。もはや線の細さなどどこにもない。こちらも名演技である。
 高畑充希が演じた於蘭の役は意外に難しい役である。この立場の女性が主役たちに絡むには、脚本が強引すぎる。それを百も承知で力技で役にしてしまった。高畑充希には場の雰囲気を全部持っていくようなところがある。他の女優さんでこの役ができそうな人をあれこれ考えたが、思い浮かばなかった。それほどはまり役だったということなのだろう。

 将軍は綱吉と言っていたから、関ヶ原の戦いから少なくとも80年以上が経過している。現代史で考えるなら1945年9月2日の降伏記念日から74年経過した現在と同じくらい、戦の記憶が遠くなっていたと思う。現代とは時間の流れが違うから一概にいえないかもしれないが、たとえば山口百恵などが花の中三トリオでデビューしていた頃はまだ敗戦から30年である。たった30年経っただけで、もはや日常には戦争の影はなかった。情報の伝達速度が遅い時代だったとはいえ、綱吉の頃にはもう天下泰平が世上に広まっていたのではなかろうか。この映画の製作者の見方も多分同じだと思う。作品の雰囲気が全体におっとりしている。
 当時はお家というパラダイムが絶対で、藩=国が武士の奉る対象だ。日本という国家についてはそれほどのこだわりはない。権力闘争は常にあるが、大義名分に逆らえば切腹である。そのあたりは世界中で変わらないようで、旧ソ連やロシアでは粛清という名で処分されていたし、日本の過激派だったら自己批判というリンチがあった。テロ組織内部も似たようなことが起きていると想像できる。民主主義は人類にとってまだまだ遠い道のりである。
 しかし今のところ日本では「新聞記者」「主戦場」「日本鬼子」「東京裁判」「カメジロー」「誰がために憲法はある」などの比較的反体制の映画も普通の映画館で上映されている。言論の自由はまだそれほど損なわれていない。しかしそういう映画は精神的にかなり応えるので、こういうほのぼのしたコメディもたまにはいいと思う。とても面白かった。