映画「ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード」を観た。
お気楽なアクション映画だ。ギャグやジョークを多めに盛り込んでいるのだが、コロナ禍のせいであまり笑えない。コロナ禍の前と後では世界が違う。何をどう足掻いても、コロナ禍の前の世界には戻れない。人心が決定的に変わってしまったのだ。
コロナ後の世界に合わせて文化も変わる。映画も同じだ。変わらなければ観客の琴線に触れることができない。世界が変わっても生き残る作品は、どれも人生の真実を描いている。単なる娯楽作品は、コロナ後の世界に合わせないと笑ってさえもらえない。
本作品がいい例だ。ライアン・レイノルズは体を張って頑張っていたが、どうしても空回りに感じる。今どきカネと暴力で世界に復讐しようとする族(やから)はウラジミール・プーチンくらいである。どうせならプーチンをモデルにしてしまえばバカウケしたかもしれないのだが、本作品の製作時にはまだウクライナ戦争は起きていなかった。運が悪い。
作品自体は大したことがなかったが、コロナ禍の中でこういうガチ密着アクション映画を製作した心意気は買う。映画人は映画を作ってナンボだ。
映画「ひまわり」を観た。
謂わずとしれた名作映画だ。まず場面転換の思い切りのよさに感心する。それに過多な説明が一切ない。台詞回しは演劇的ではあるが、凝縮した台詞がリズムよく語られる。喜びと哀愁の表情も見事で、さすが歴史的な名優の共演だ。一分の隙もない。
第二次大戦中のイタリアが舞台で、新婚のジョヴァンナとアントニオは新婚旅行先のホテルで濃密な12日間を過ごす。
テレビもネットもない時代だ。おまけに灯火管制で窓から灯りが洩れるのも許されない。やることといったら寝ることとセックスと食べることだけだ。否が応でも互いに見つめ合うことになる。そして相手が自分の一部になるくらい、親密になる。そこにいて当然の関係だ。
そんな関係になってしまうと、別れはことのほか辛い。ジョヴァンナとアントニオはなんとかして別れないですむ算段をするが、時代はふたりに冷たく、アントニオはロシア戦線に向かうことになる。アントニオの帰りを待ち続けたジョヴァンナの悲哀と鬱屈を演じたソフィア・ローレンが素晴らしい。その表情は女の優しさに満ちている。
人生とはすなわち出逢いと別れである。出逢うことは別れることなのだ。出逢いの喜びが大きいほど、別れの悲しみも大きい。出逢わなければ別れの哀しみもないが、人生の喜びもない。なんともやるせない話だが、そこに人生の味わいがある。別れもまたよし、なのだ。
映画「親愛なる同志たちへ」を観た。
共産主義の理念は、能力に応じて働き、必要に応じて消費するというものである。なんとも合理的であり、そういう社会が実現可能であれば、今流行りの持続可能開発目標に近づくだろう。しかしそれは夢物語だ。
ドストエフスキーは社会主義について、非合理的な存在である人間を合理的なシステムに組み込めるはずがないと喝破した。そのとおりだと思う。
労働については、皆が皆、一生懸命働くとは限らない。それに共産主義における労働というのは主に第一次産業と第二次産業だ。マルクスは金融資本主義が経済の主流になるとは考えなかっただろうし、IT技術などは想像すらできなかったに違いない。
消費については、プライベートジェットや大型クルーザーや果ては自家用の飛行場まで必要だとする人もいれば、極端に質素な生活で十分という人もいる。人間の欲望に合理性などないのだ。
つまるところ、国家が強権的に管理することになる。人間はまだ共産主義に移行できるほど完成されていない存在なのである。だから共産主義国は、共産主義がどれだけ平等な幸福を齎すかを宣伝しなければならない。プロパガンダだ。プロパガンダを必要とする政治は、要するに欺瞞の政治である。
本作品はキューバ危機の頃のソビエト社会主義共和国連邦のある一都市の様子を描いているが、ソ連の縮図となっている。強権的な管理社会は、反体制的な言動に厳罰を課す一方で、プロパガンダへの協力や有用な情報提供には褒美を与える。仮面社会、密告社会だ。
ソ連の体制側にいる主人公は、共産主義の理想を信じて疑わない人生を送ってきたが、平和なはずの町で暴動が起き、銃撃で人々が殺され、娘が行方不明になったことで、共産主義を疑いはじめる。しかしそれはこれまでの人生を疑うのと同じことだ。自分の人生が無駄だったとは思いたくない。心は千々に乱れる。
共産主義の強権の中枢にいる人は、逆に共産主義の理想を信じていない。信じていれば人々が自発的に共同作業と共同分配を行なうはずだから、強権的な管理は必要ない。管理が必要ということは、共産主義の理想は実現されることがないということである。つまりソ連は、その出発点から決定的な矛盾を内包していたわけであり、内部崩壊は必然だった。
共産主義に限らず、すべての強権的な政治は内部崩壊が必然である。現在は民主主義国よりも強権政治の国が多いが、過渡期であるとも考えられる。マルクスも過渡期の問題を論じている。強権政治→民主政治→共産主義ということなら、現在も過渡期ということになる。
しかしドストエフスキーの言う通り、人間が合理的な整合性を獲得するとは思えない。人類には民主主義が精一杯なのだろう。
映画「Endangered Species」(邦題「クルーガー 絶滅危惧種」)を観た。
原題は「Endangered Species」だから「絶滅危惧種」である。邦題の「クルーガー」の意味がわからない。南アフリカの国立公園だとしたら、キリマンジャロ山が見えるのはおかしい。地平線は約30キロメートル先である。高い山やビルはもっと遠くても見えるが、クルーガー国立公園からは、2,400キロメートル離れたキリマンジャロは見えない。台北からは2,000キロメートル離れた富士山が見えないのと同じだ。
邦題のことは置いといて、本作品の主役は出来の悪い家族である。娘の彼氏のレゲエのお兄さんみたいな男が一番まともだった。無茶な旅をする一家がサイに襲われて酷い目に遭う話だが、アメリカ的な家族第一主義に対して、ケニア的なエコロジーが所々で割り込み、何を描こうとしているのか、ピントが合わない。
エンドロールの前になって、密猟者が大量にいて動物を絶滅させているという紹介が出るが、毎年たくさんの種が絶滅しているのは、大抵の人が知っていると思う。立場によって絶滅種の数は異なるが、人間が絶滅させているのは間違いない。
絶滅を悪とし、存続を善とするなら、人類の存在を真っ先に否定しなければならない。しかし人類にも絶滅の運命が待っている。
有名な話だが、地球の歴史を24時間でいうなら、人類の登場は23時59分ころらしい。地球の歴史を1年に換算すると、人類の登場は大晦日の23時過ぎらしい。登場したばかりの新人が、地球を荒らしまくって種の絶滅を早めている訳だが、それも含めて地球の歴史だろうと開き直る考え方もある。電力を使わない生活に、いまさら戻れる筈もないのだ。
人類は一発屋の芸人だ。出てすぐに消えてしまう。芸風を変えたからといって、ウケるとは限らない。あるいは預金を食いつぶしながら生きている家族だ。節約しても、預金はいずれ底をつく。贅沢は敵だ、欲しがりません勝つまではと頑張ってみても、勝利は絶対にないのである。
映画「Kursk」(邦題「潜水艦クルスクの生存者たち」)を観た。
ロシアはゴルバチョフによる改革で全体主義から民主主義へと移行したかに見えたが、実際はそうでもなかったことは、エリツィン大統領とその後継者であるプーチンの政治で明らかになった。エリツィンのチェチェン侵攻からプーチンのクリミア併合、ウクライナ侵攻と、ロシアは世界から総スカンを食らう政治を延々と続けている。
思うに、ロシアの官僚主義は日本のそれによく似ている。事なかれ主義と責任回避が蔓延して、誰も責任を取らない。自分で決定すると責任を取らなければならないから、上司の命令を待つ。上司は上司で、その上からの命令を待つから、結局は大統領の命令ですべてが決まる。イエスマンしかいないわけだ。それに加えて日本の官僚は、既得権益の死守と利権拡大と天下り先の開発には余念がない。ロシアも同じかもしれない。
あまり報道されないが、厚労省がワクチン接種の横並びに固執した結果、ワクチンの使用期限が切れてしまった。地方自治体の首長たちが早く接種させろと訴えたにもかかわらず、厚労省の役人は批判を恐れて訴えを却下したのだ。世田谷区の保坂区長が怒っていた。
その後、使用期限が切れたことが明らかになると、期限が切れても大丈夫だと強弁している。賞味期限切れの食材を使った飲食店は営業停止になるのに、厚労省のミスは許されるらしい。試しに厚労省を営業停止にしたらどうか。日本の衛生保健行政はずっと円滑に進むかもしれない。
本作品でも、ロシア軍の官僚主義が救助を妨げる。軍人は基本的に命令には絶対服従だから、官僚や政治家が素早い決断をすればいいのだが、イエスマンばかりだと、誰も決定しない。そこで大統領の決断を仰ぐことになる。
人命が大切なのか。それとも軍人は国のために死ぬ覚悟をしているから、国家の威信を優先させるのか。二者択一のように思えるが、実はそうではない。軍人も人間だ。人命に違いはない。つまり本当の二者択一は、国家なのか、国民なのかである。
国民が主権の国を民主主義国、国家が主権の国を国家主義国と呼ぶ。ロシアは明らかに国家主義である。ファシズムだ。何のことはない、プーチンのロシアはナチスそのものなのである。
理科の授業で、水を張ったビーカーにろうそくを立てて火を付け、上からフラスコを被せる実験をした人もいるだろう。火が消えるとどうなるかを憶えている人がいれば、本作品の出来事に納得すると思う。
軍人も人間だから、命の危機に際しては生き延びようとする。本作品では緊迫した状況で、生き延びるための様々な努力が描かれる。訓練どおりにはいかないし、貧乏なロシア軍は給料もろくに払えないから、訓練も足りていない。にもかかわらず北極海で演習をする。愚の骨頂だ。軍人たちをほぼ使い捨てに等しい扱いをしている。この頃から、プーチンには合理的な思考が欠如していた訳だ。
本作品で描かれる潜水艦内部のストーリーは創作だが、息を呑むシーンの連続である。特に潜水して道具を取りに行くシーンは、観ているこちらも息が苦しくなった。潜水艦内部の様子を描く一方で、陸で帰りを待つレア・セドゥをはじめとする軍人たちの家族の物語もちゃんと用意されている。
命令を待つだけのロシア軍の官僚、命令に従うだけの軍人たち、給料もなくて苦しい生活を送る家族、そして民間人にも容赦のない諜報組織。事故を取り巻く人間たちの様子が立体的に描かれている。奥行きのある作品だと思う。
映画「とんび」を観た。
阿部寛の演じる市川安男は、暴れん坊の大男だが普段は真面目でよく働く。キレやすいから要注意だが、そこが面白くてからかう仲間もいる。何度も騒動になるが、安男が人を怪我させたりしないことは、みんなわかっている。
瀬々監督と阿部寛は前作の「護られなかった者たちへ」に続くコンビで、相性がとてもいいようだ。無理のない演出で自然な演技ができる。そのおかげだろうか、男の優しさや誠実さが、無口でぶっきらぼうな態度の中に滲み出る。そこにじんわりとした感動がある。
俳優陣は概ね好演で、照雲さんを演じた安田顕が特によかった。安男があまり歳を取らないのに対して、照雲さんは徐々に老けていく。見た目もそうだが、歳を取るにつれて人柄が丸くなっていくのは、演出というよりも安田顕の演技力だろう。
ハイライトは息子の入社試験の作文を読む場面だ。二十歳の誕生日に和尚の手紙を読み、父の本当の優しさに触れたことで、旭は人間的にひと回り成長する。二十歳の誕生祝にこれほど素晴らしい手紙はない。旭は安男だけの子供ではない。照雲さんの言う通り、街のみんなの子供なのだ。たしかに戦後の昭和はそういう時代だった。
それがいい時代だったのかどうかはわからない。善意もあったが、欲望や差別が剥き出しだった時代でもある。それに対して、今は欲望や差別を隠蔽する時代だ。そして匿名の悪意が猖獗を極めている。男の優しさなど、どこかに消えてしまった。
しかし人は優しさを取り戻すことができる。別れが照れくさくて便所にこもっていた安男も、これが旭との今生の別れになるかもしれないことに気づく。そして追いかけて手を振る。どうか達者でいてくれ、息子よ。阿部寛の渾身の演技に泣かされる。素晴らしい作品だ。
映画「今はちょっと、ついてないだけ」を観た。
味わいのある群像劇だ。玉山鉄二演じる主人公立花浩樹を取り巻く登場人物それぞれにエピソードがある。どれも煮詰められて短く纏まっていて、なかなかいい。
音尾琢真の宮川良和は、バブル期の売り手市場でテレビ局に就職できた平凡な男で、努力もせずにぼんやりとバブルに乗っかって生きてきた。そしてバブル後に不景気の波が来たときに左遷されてしまうのだが、クズ嫁に人格を全否定されてしまって、生きる意味を失ってしまう。音尾琢真はとても上手い。
立花浩樹が借金を完済後に住んだシェアハウスの住人セトッチこと深川麻衣が演じた瀬戸寛子は、美容師の資格を持ちながら、皮膚が弱いことで美容院勤めが出来ない。そのことで美容師を目指してきたこれまでの人生が否定されているように感じている。
それにしても深川麻衣は、2021年の映画「おもいで写真」では表情に乏しい演技で作品全体を台なしにしていたのに、本作品では伸び伸びと表情豊かにセトッチを演じていた。
監督の演出の差なのか、監督との相性なのか、「おもいで写真」は主演で肩に力が入っていたのか、それとも女優としての急激な成長なのか、当方には分からないが、本作品ではセトッチの人間的な魅力が十分に感じられた。
背負った借金を個人で返済するのは大変だ。少ない収入から必要最低限の金額を除いて、残りの全額を返済に当てたとしても高がしれている。だから完済には長い年月を要することになる。
幸運な人は銀行や資産家から借金をして事業を始めることができる。事業収入は個人の収入とは桁が違うから、返済に時間はかからない。しかしそういう人は稀で、大抵は一生懸命に返済するか、自己破産をしてしまうかのどちらかだ。
死語かもしれないが、個人から借りた借金を踏み倒すことを「不義理」といって、不義理の相手の家には行きづらいことを「敷居が高い」といっていた。敷居が高い状態には、誰もなりたくないものである。その分だけ精神の自由が狭まるからだ。
借金には保証人や連帯保証人を求められることがあって、連帯保証人となると、借主と一体と見做される。借主が自己破産などでお手上げしたら、自動的に返済義務が生じる。
立花浩樹が自分で借金したのか、それとも連帯保証人だったのかは定かではないが、話の流れからすると連帯保証人だったように思える。事務所の社長に一杯食わされたのだ。15年かかっても、完済したのは立派である。世間を狭くしないで済んだ。それからは自由に生きられるのだ。
本作品のテーマはまさにそこにあって、宮川もセトッチも立花も、背負った重荷を気にするあまり狭量な考えになってしまっていたが、何かをきっかけにして、つまらないこだわりやプライドを捨ててしまって自由に生きられるようになった。立花にとっては母親の「今はちょっと、ついてないだけ」という言葉がきっかけになった。根拠のない励ましであることはわかっているが、応援してくれる母の気持ちが立花の心を解きほぐす。いいタイトルだ。
映画「モービウス」を観た。
マッドサイエンティストが登場する映画で記憶にあるのは、ジョニー・デップが主演した2014年の「トランセンデンス」やエリザベス・モスが主演した2020年の「透明人間」などが記憶に新しい。
本作品を観て、ジェフ・ゴールドブラム主演の1986年「ザ・フライ」を思い出した人も多いだろう。テレポーテーションを物理学で行なうために、2つのポッドを用意して繋ぎ、一方に動物を入れてもう一方に転送する実験についに成功した博士が、自分自身を転送する実験を行なうが、その際に一匹のハエがポッドに入ってしまった。そのハエと遺伝子レベルで融合した博士は、異常な活力を得るのだが、、、という話だ。この映画はとても面白かった。
本作品は「ザ・フライ」ほどの目新しさはないが、それなりに面白い。主人公モービウスは、吸血コウモリの血液によって難病を治療しようとする医学者で、血清を投与した後は驚異的な能力を得るが、その一方で、、、という話。モラリストとしてのモービウスの葛藤があって、作品が平板にならないようにしているところがいい。それにアクションがユニークで、VFXはとても見事だ。だから飽きずに楽しめる。というか、あっという間に終わる。続編ありの終わり方だ。
冒頭の幼い頃のエピソードは物語にとって重要であり、モービウスの出発点でもあるから、続編でも使われるだろう。物語の決着のつけ方と、マイロとマルティーヌのその後が気になるので、続編も観たいと思う。
映画「キャスティング・ディレクター」を観た。
映画のエンドロールに、洋画なら「Casting」邦画なら「配役」という役割が出ることがある。これまでは何も考えずに、ただ茫然と眺めているだけであった。配役をさして重要な役割だとは考えていなかったのである。大抵がオーディションで決められるか、脚本家が当て書きをするか、業界の力関係で決められるものだと思っていた。
しかし考えてみれば、すべての作品でオーディションが行なわれる訳ではないし、当て書きをされるのは極く一部の俳優である。芸能事務所や制作会社が決めるといっても、たくさんの作品製作をすべて網羅しているわけではないだろう。
ということは、配役担当者がそれぞれの役に相応しいと考える俳優を用意する訳で、交渉の段階で業界の力関係がはたらく。配役担当者の力と業界の力のパワーゲームになることもあるのだろう。
本作品では、かつては優秀な配役担当者がいて、映画の配役を任されていたことが紹介されている。配役によっては作品を台無しにすることもあるし、逆に配役によって役者同士のダイナミズムが生まれて作品が俄然、輝くこともあった。
特に本作品で中心的に扱われているマリオン・ドーハティは、すべての現役俳優について、長所、短所、特記事項を熟知している上に、様々な劇場を巡って未知の才能を発掘したりもしていた。業界は彼女の実力を知って尊敬し、主張が対立したときは彼女の意見が尊重された。
しかし映画が商業主義に飲み込まれて芸術としての独立性を失うと、配役担当者もその地位を失ってしまった。業界の力に押されて、独自の配役を通すことができなくなってしまったのである。そうなると芸能事務所のエージェントが仕事をさせたい役者、売り出したい役者を配役することになり、作品のことは二の次になる。役者同士のダイナミズムなんて誰も考えないから、作品が輝くこともない。
ハリウッドのB級映画がつまらないのは配役も一因だったのかと、配役の重要性を改めて理解した。先日鑑賞した「TITAN」が無名の女優を使って成功していたように、ドーハティのような天才的な配役担当者が、その力を存分に発揮する日が戻ってくれば、ハリウッド映画も芸術性を取り戻せるかもしれない。でなければハリウッドの映画はいつまでもB級のままである。
映画「アネット」を観た。
ヒロインのアンを演じたマリオン・コティヤールの歌が素晴らしい。この人がエディット・ピアフを演じた映画は残念ながら劇場での鑑賞を逃してしまった。ヘッドフォンを介しての配信の歌は聞く気になれなかったので、結局この人の歌を聞いたのは本作品が初めてだ。これほど上手だとは思いもよらなかった。
ヘンリー役のアダム・ドライバーの歌はコティヤールに比べればかなりの差があるが、ミュージカル映画の歌としてはそれほど悪くなかった。悪態をつくのを売りにしたスタンダップコメディアンの演技もそれなりの迫力があってよかったと思う。
本作品は We love each other so much の歌が繰り返される恋のはじまりから、娘のアネットの誕生、アンとヘンリーのそれぞれの仕事の明暗、格差と嫉妬、不安と怒り、そして恐怖に行き着く。ふたりの情緒の変化が、悲劇へと突き進む位置エネルギーとなるのだ。物語はアンが心配した最悪の展開で進んでしまう。
ヘンリーの性格が齎した性格悲劇であり、アンがヘンリーの本質を見抜くことが出来なかったことが悲劇の原因である。ヘンリーは破滅に突き進んでいく性格で、その根底には不寛容と被害者意識がある。相手がアンでなくても、悲劇に進んだに違いない。
悲劇には劇的に悲しいラストシーンが必要だが、本作品はそれがやや弱い。中途半端なままで映画が終わるから、観客はカタルシスを覚えることができない。ヘンリーが娘を絞め殺したところを看守に射殺されるくらいがちょうどよかった。
悲劇を悲劇として徹底できなかったところが、本作品の完成度を落としていると思う。制作陣が、凄惨なラストシーンにするのを恐れたのかもしれない。ネット社会にありがちな、思い切りの悪さである。あとひと息だったから、凄く残念だ。