政治家はやっぱり顔じゃないかな。鳩山由紀夫首相や民主党の小沢一郎幹事長の顔はどことなくついていけないよね。小沢はつかみどころがないし、変に正義漢ぶったりして、いけ好かないよな。鳩山は眼が泳いでいるから、嘘をついていることがばればれだよ。どうせ首相は裁かれないのがわかっているから、白々しいいことを言っても許されるわけだし。それから、反小沢と目される国家戦略担当相の千石由人、国土交通大臣の前原誠司、行政刷新担当相の枝野幸男とかも、口を尖らせている印象が強くて、見たくない部類だよね。お坊ちゃん内閣にはふさわしいだろうけど、虫唾が走るよ。映画監督の大島渚が、小沢と同じ田中派だった梶山清六のことを、「いい顔をしている」と絶賛していたっけ。苦みばしったところが気に入ったんだよね。人情味のある悪役という感じがするから、絵になるんだよな。女にも惚れられたんじゃないの。政治が国民から信頼されるには、政治家らしい顔をした指導者が出てこないと。土門拳の言葉に、「美しい顔というのは、感情の表白を控えめにした顔である」(『風貌』)というのがあったっけ。その観点からすると、感情を抑えられない鳩山は、最悪なんだよね。
民主党の小沢一郎幹事長は、法律は数の力によってどうにでもなると思っているのかね。民主党を中心とした政権が誕生してからは、何もかも思いどおりになると勘違いしているみたいだよ。いうまでもなく、実定法が絶対ではないのは確かだよ。尾高朝雄は『法の窮極に在るもの』のなかで、法を成り立たせしめているのが、政治的な力だというのを認めているわけだし。法を法たらしめるためには、憲法がまずなければならず、それを制定する必要があるわけだから。でも、尾高は、そこには大きな制約があるべきだという立場じゃないかな。つまり、自然法の機能をなおざりにはしないんだよね。「古来の学者の説いた自然法は、その根本の内容から見ると、道徳であり、宗教であり、あるいは経済である。ところで、これらのものは、それぞれ法を通じて自己を実現する力をもっている。道徳は、人間共同生活の奥深い基準であり、その理念が良心の琴線にふれるものであればあるだけ、人はこの基準にしたがって行動すべき義務があることを否定できない」と書いていたっけ。これに対して、カール・シュッミットは、その政治的な力を「憲法制定権力」と呼び、正当性よりも、純然たる「事実力」を問題にしたんだよね。つまり、権力があれば何でもできるということだよ。そのシュミット流の法解釈は、尾高に言わせれば「社会民主主義ドイツの法治国家体制を崩壊せしめ、非法の世界にはばたこうとするナチスの運動に万能の翼を与えんがための政治の手段に外ならなかった」ということだけど。小沢の「数は力なり」という考え方も、所詮はシュミット理論の焼き直しでしょう。小沢ヒットラーと批判されるのも、むべなるかだよね。