不甲斐なき民主党や自民党のさまを見るにつけ、竹中労が「(左も右も)現状変革の志において連動することが可能ではないか?左右を弁別せざる反権力・反体制の戦線をスタンバイすること、風化し空洞化している革命の志を更正する道はそこにしかない」(「右翼との対話」現代評論社)と断じていたのを思い出してならない。とくにソ連での歴史的実験が失敗してからは、保守民族派にウエイトが移ってきたことは否めない。サヨクの戦線がズタズタになっている今こそ、歴史の表舞台に登場すべきなのである。それは浪人であった、頭山満や内田良平に続くことではなかろうか。野村秋介は生前「民族の触覚」ということを口にしていた。そして、野村は「われわれは大勢の人たちと同じ位置にいてはいけないんですよね。常に時代をクリアする発想をもち、一番先に旗を揚げなきゃならない。それが民族派の使命だと思うんです」(猪野健治編『右翼・行動の論理』)と語っていた。時流に棹さすのではなく、少数派として警鐘を乱打することこそが、三島由紀夫や野村のパトスであったし、それを誰が受け継いでゆくかが問われているのだ。石川啄木の歌にもあるように、時代があまりにも騒々し過ぎると、かえって「人がみな同じ方角向いて行く。それを横より見てゐる心」というのが大事なのだと思う。デモ隊にどれだけの数が集まったかが問題なのではない。肌で感じる「民族の触覚」によって行動する少数者が、明治維新のように国を動かすのである。
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