12年間の私の学生時代は思い返しても、ただただ遊びの場以外の何物でもなかった。
大人になって知ったことだが、もう小学生時代から、自分の将来の夢を持っていた人たちの多きこと、そんなこともつゆ知らず
ようするに幼稚だったのだ、毎日友達と何をして遊ぶか、それが最大の関心事だった、家の手伝いは良くしたが。
日記の整理をしていて、それがわかった、とにかく毎日の口癖は「明日から勉強をがんばろう」だった。
明日になれば、またその日の明日に先送り、危機感は持っていたが、それはテストの順位だけのこと、卒業後からの人生は頭になかった。
結局、中学校から高卒まで勉強らしい勉強をしたのは高校受験の一週間前だけで、あとにも先にもそれ以上勉強をしたことがない。
とにかく将来の夢とか、何をしたいと言う概念が無かったのだから、そんなありさまだった
「その時が来れば、なんとかなるだろう」いつもそんな気持ちだった
それは中学生時代に既に自分の一生の鉄路を受けいれたからだ
決まっていた人生のレールに乗って走り出したミニSLだった、今思うと不思議なことである、抵抗もなくレールに乗ったのだ、逆に言えば他力本願の私にはもっとも安心な方法だった。
「こうしたい、こうなりたい」なんて言ったこともない、夢も希望もない
敷かれた線路の上を進むこと50年、最期に脱線してそれは終わった、そこで呪縛も解けた。
こんな人間だから、小、中、高の恩師の名前が思い出せない。
全てではない、その中で影響をいただいた数名は覚えているし、その先生にはほかの生徒よりよほど深く長い付き合いをした。
小学校1~2年を習ったS先生、中1のF先生、中3の担任U先生、副担任H先生、高1の副担任A先生、この5人だけが思い出深い
それを今日は書いてみる
小1~2の二年間担任だったS先生は他のクラス担任と違い40代の女の先生だった、だがら「ばあちゃ」と陰で呼んでいた。
S先生は学校から15kmくらい山に入った村に住んでいて、当時はバスで1時間かかった
言葉も飾らない方言丸出しで、私たちに接したので、そんな人が好きな父はいっぺんでファンになったらしい。
私も祖母みたいなS先生といると安心感があったし、勉強どうこう言うより自然体で教育するのが上手だったようだ
クラスは生まれ月順に編成されていて、私たちのクラスは4月、5月生まれが多く即ち成長が早いクラスだった。
関係はどうか知らないが、55人ほどのクラスからは田舎では数少ない国立大に入った者が4~5人いた、東大医学部もいた。
S先生は3年の時に、その先生の村の小学校に転出された、後日知ったが偶然にも女房殿の兄(義兄)の担任になった。
中学、高校に行っても先生の家に夏休みになると小1~2の同級生数人で遊びに行ったものだった。
先生が亡くなる数年前まで、実に40年間くらい年賀状のやり取りをしていた
病院に義兄の見舞いに行ったら、S先生も入院していると聞いて二人で先生の見舞いをした、その時は初めて義兄がS先生の教え子と言うことを知ったのだ
S先生が亡くなったとき、私は因縁あって火葬場まで送迎してお骨拾いに付き合った、そして家まで送った。
54人の同級生の中で私だけが、先生の人生最後の日まで恩返しできたことが誇らしかった。
北軽の林道
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