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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 3

2024年02月05日 19時36分54秒 | 甲越軍記
 編者曰く 砲術が外国から伝来したことは天文八年八月薩摩国赤荻の港に南蛮国の大船が嵐で漂着し、俗民が略奪を図り船中に乗り込むと、大明国の俗儒五峰という者が乗っていた。 
五峰は筆談により、これは商船であり嵐にあって流れ着いたものであると言って民をなだめた
地主の種子島兵部時堯はこれを知って哀れみ、船中の乗組員を陸に上げてもてなし、船を修理してやった。
船長の牟良叔舎は、深く時堯に恩を感じて、鉄砲一丁を贈り薬玉の製法や鉄砲に関する技術を伝えて帰国していった。

永正七年山伏玉龍坊が北条氏綱に奉ったという説もある、これが真なら新左衛門の時より17年前であり
また天文八年に牟良叔舎が時堯に伝えたのを真とすれば、新左衛門が信虎に伝えた時より13年後である。
いずれも真であろう、ただこの戦国で世が乱れ共通の法令も規律もなく、各々が心のままに自由に外国と通っていたのであろう。
玉龍坊は鉄砲を北条に献上したが薬玉の術は知らず、故に17年の間世に知られることがなかった
新左衛門は自ら漢土で学び伝えたので製造、薬玉、使用法すべてに通じていた、けれども信虎は秘中の秘として他に知らしめることなく国内に広まることはなかった。
天文八年に種子島に伝わったのは南蛮国の鉄砲だったが薩州(鹿児島=島津)でも、鉄砲については秘匿されてしばし国内には伝わらなかった。

それから17年後の弘治元年、中国で毛利元就と陶入道が芸州厳島で合戦した時、陶の陣中から毛利陣中に鉄砲が打ち込まれた。
これが中国の地で鉄砲が使用された始まりであり、東国で最初に用いられてから凡そ30年が過ぎていた。






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