己に対抗する勢力が無いのを良いことに、為景はついには主である越後守護の上杉民部大輔房能を殺して越後を奪おうと密かに謀っていたが、同国琵琶島の領主、宇佐美越中守孝忠は沈勇謀略の将で、彼がいるうちはさすがの為景も実行に移すことが出来なかった。
永正四年二月に宇佐美越中守が病にかかって亡くなった
屋形の上杉民部大輔房能は為景の逆心を知らず、その頃、諸国は乱れに乱れた戦乱の中にあったけれど、先代の上杉相模守房定入道は近代の名将であり、その政治は正しく士卒は富み栄え、百姓、商人は繁栄し数年は穏やかであった
それに比べて房能は武の道に疎く、明けては鷹野にひたり、月下の宴、連歌の会など逸楽にふける日々を過ごしていた。
為景は(ようやく時至れり)と思い、永正六年三月、八千騎を従えて俄かに府内の館を攻め立てた。
屋形の者たちは思いがけぬ攻撃に慌て、弓を持つものは矢を忘れ、あるいは繋げた馬に乗って鞭を打ち、上へ下への大混乱に陥って逃げ惑う
僅かに、恥を知り立ち向かう士もあったが、それとて素肌に衣をまとい刀を脇に差しただけの姿で、準備万端の鎧武者の前にはただ撃ち殺されるだけであった。
そんな中を忠義の士、五、六十名は民部大輔を守護して越中(富山県)へ落ちのびさせようと逃げるのを、為景の兵は追い詰めて、ついに雨溝というところで追いついた。
守護の士はここに踏みとどまり、「日頃のご恩に報いるのは今である」と大軍の中に切り込んで全員討死を遂げた
房能もまた、ここで討死してしまった。 為景は兵をまとめて勝どきを上げた後、越後府中に凱旋した。
帰陣した後は、為景は越後国内の領主たちに礼を厚くして招いたので、日々為景に従い馳せ参じた領主は増えるばかりであった。
しかし、ここに琵琶島城主、宇佐美越中守の子、宇佐美駿河守定行が決起した
定行は二十一歳、屋形の討死を聞くと、大いに憤り主君の仇を討たんと思い、上杉の庶流、上条の城主上杉兵庫頭定実(さだざね)を迎えて屋形と成し
重代の備前長光の太刀をたてまつり祝して、奮臣を集め琵琶島城に籠った
しかれども外に加勢が無く、風前の灯火という状況であったが宇佐美駿河守は近隣に聞こえる智勇の将である、少しも動ずることなく、以後為景との合戦が続くこととなる。
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