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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(226) 甲越 川中島血戦 53

2024年10月14日 19時41分16秒 | 甲越軍記
 京都にて政治を握る足利将軍家は、関東の地をも押さえさせるために関東管領を定めて鎌倉に足利一門を送り込んで関東管領と定める。

管領足利基氏の時、足利管領家の執事である上杉右京亮憲忠(のりただ)が、憲忠の執事、長尾左衛門尉昌堅(長尾景虎の祖)の謀で関東管領を継いだ
足利持氏の末子、成氏は是を怒って上杉憲忠を殺した、すると上杉の一門はこれを怒って戦いを挑み、上杉兵部少輔房顕が成氏を破って鎌倉に戻り管領を名乗る
房顕の子、民部太輔顕定は上野平井に城を築き、鎌倉の山内に住み山の内上杉家となり、上杉修理大夫定正は扇ケ谷(おうぎがやつ)に住んで扇ケ谷上杉家となり、互いに管領を号して、両管領という。

顕定の子、民部大輔顕実は武州鉢形城に住して管領職を継ぐ、そして数代、上杉憲政の時、小田原北條氏康が武田と密約を結び上野国に攻め込んで、天文二十年、憲政は敗れて上野国を逃れて、長尾景虎を頼って越後春日山に至った。

そもそも上杉家とは、天武天皇の御代まで遡り、大織冠藤原鎌足を祖とする
大織冠とは臣の最高位であり、後にも先にも藤原鎌足ただ一人しか、この地位を得た者がいない名誉の官位である。

長尾景虎に会った上杉憲政は上杉の姓と関東管領の職を譲り与えて、北條を討ち滅ぼしてわが仇を討ってほしいと願う
景虎は名誉に思い、大いに喜びこれを承って、姓を上杉と改めて神余隼人佐を京に上らせて、官途受領を願い出れば、足利義輝公は奏達ありて、景虎に弾正少弼に任じて、従五位下に叙す
関東管領上杉弾正少弼景虎と名乗り、法体ゆえ謙信と号する、庵号を不識庵心光と号す。

謙信は、上杉憲政の願いをかなえるべく、憲政を伴い関東に出張り、北條を攻め打たんと諸大将と軍議を重ねる。



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