この地で指導者的な在地両班に通詞をたてて聞いてみると
「倭人は我らを朝鮮人とひとくくりにするが、このあたり太白山(テペクサン)以南の土地は大昔は三韓と言って馬韓(マハン)、辰韓(チンハン)、弁辰(ビョンジン)と別れていたが一人の王の元で一つの国と言ってもよかった
その後の時代には、百済と高麗の二国が三韓の地を継いで、倭国とは親しく沿てきた。 都など北の方の朝鮮人の祖先は、平安道よりさらに北の種族が祖先で南下してきた者である、騎馬を使った遊牧民であるが、我らは倭人と同じ農耕民族である
その昔には倭国へ米造りを教えたのじゃ、仏教も百済が倭国に伝えた、釜山は昔より倭国との窓口で交易が盛んだった、だから我らは倭人に対して違和感も敵対心も持ってはおらんのじゃ、まあ土地を収めている文官や武官は都から派遣された者だから敵対するじゃろうが、江原道までの民衆は敵と思わず、その地の住人を大事に扱ってほしい、そうすれば倭人に協力的であるだろう」と自虐的な笑いを見せた。
この頃になると、ようやく「日本軍上陸の知らせが朝鮮の首都、漢城(現代のソウル)に届き大臣たちが騒ぎ出した、宣祖に知らせて判断を仰いだが、宣祖は驚いて何も発さず寝込んでしまったので、朝鮮の王朝は混乱した。
翌日になって、ようやく宣祖は気を取り直して朝議を始めた、だが大軍で迎え撃つという派閥と、早急に王たちは平壌(ピョンヤン)まで後退した方が良いという派閥、和平を持ち掛ければ、という小派閥もあった。
18日には第三軍が釜山の西20kmの金海に上陸して金海城を占領した
翌日には六軍七軍も金海に上陸して進軍を開始した、日本軍は続々と朝鮮に進軍を開始した、まだ大部分の朝鮮人民はそれを知らない。
この頃、秀吉がようやく九州の玄関小倉に到着した、道中が混雑していたことや体調を崩したりして何日も休んだりしての長旅だった。
第三軍は金海から更に15km西にある要衝、昌原(チャンウオン)を占領、日本国内の戦に比べればまったく問題にならないほど簡単な戦であった
鉄砲を持たない朝鮮軍は赤子の手をひねるようなものであったし、敵は終始逃げ腰であった。
加藤、鍋島軍が進む慶尚道東部はもっと酷かった、鎮台(城塞)の兵は司令官を先頭に第二軍が来る前に空っぽになっていた
役人も軍人も北へ山へと逃げ込んで戦闘にもならない、役所などが焼けるのは日本軍の戦闘ではなく、朝鮮人暴徒が略奪したり、日ごろの役人への腹いせの為、放火したのだ。
ここまで攻め込まれても朝鮮王朝では何ら方針が決まらなかった、朝鮮王宣祖は、「領議政、そなたは以前、わが軍隊は人数も揃い訓練も行き届き、倭人などやってきても簡単に追い払えると申したな!」
「それはその、そのように聞いておりましたから」
「誰に聞いたのか、その者をここに引き出せ、首を刎ねてやる」
領議政は何も言えず首を垂れた。
長子の王子、臨海君(インヘクン)はいつまでも実りない発言で対立している東人派、西人派を見て癇癪を起こしているが自身にも解決策はなく、尚更苛立つのであった。
ところが宣祖から日頃冷遇されていた次男の光海君(クァンヘクン)がこの状況に立腹して
「汝ら大臣がこれだけいても、朝鮮国の危機になんら手を打てないでいるのは、日頃より危機に対する緊張感をもっていないからである、このような国の存亡にかかわる時に、東だ西だとまだ権力争いをしている、役に立たぬ大臣ならば、直ちに辞表を書いて故郷に帰るがよい、国を守ろうという気概がある者は、私と共に立ち上がろう
王様、国の役人どもがこの危難の時に二の足を踏んでおります、私に指揮を任せて下されるなら一命を賭して倭軍に立ち向かいますが、お許しいただけますか」、17歳の王子が立った。
このような情けない状況だったから、宣祖は光海君に任せるしかなかった
光海君は大臣のほか官僚や将軍全てを、景福宮(けいふくきゅう=キョンプックン)の勤政殿に集めた。
「まずは王室の護持を最優先として、王様、王妃、皇女そのほか幼い皇子を、私が護衛して平壌までお送りする
領議政、左議政、右議政も同行せよ、王室を平壌に送り届けたのち、私は黄海道、平安道の兵を率いて漢城に戻ってくる、その間、倭軍を迎え撃つ勇気ある将軍は居るか!」
将軍たちは互いに顔を見合わせている、そんな中で「拙者がこのお役目、承る」と声を上げた将軍がいた。
「おお!申砬(シンリプ)将軍であるか、さすがは北方の蛮人を懲らしめた大将軍である、兵6000を率いて敵が迫る忠州へむかい、弾琴台に入って敵を防ぎ、王族が避難する時間を稼いでいただきたい」
「承知しました、光海君がそのように決意されたのであれば、我ら武人も国難を救うため敵が10万であれ一歩も退きませぬ、もとより死は覚悟の上でござる、最期の一兵まで戦い抜きますぞ」
申砬将軍は朝鮮南部三道の陸軍総司令官である。
宣祖は光海君の指導力を目の当たりにして一縷の希望を見た
「この場で皆に宣言しよう、今日より光海君を世子(セジャ=次期王となる王子)とする」
東人派の家臣たちが一斉に鬨の声をとどろかせた。臨海君が長男であるが、光海君同様妾腹の王子である、皇后には王子がいなかったのである
だが西人派の官僚は憮然としている。
光海君は「王様、王子たちは手分けして各道に行き、兵を集めていただきましょう、今、各地の兵も役人も動揺しているはず、兵たちを束ねて迎撃態勢を作らねばなりません、王様と王妃様、幼い王子と女子衆は平壌に私が護衛してまいります、兄上(臨海君)は威鏡道(ハンギョンド)に向かって兵を募ってください、順和君は江原道(カンウオンド)で兵を集めていただきたい」
王子たちは不安ながらも、光海君に励まされて数十の兵に守られて出発した。申将軍も直ちに忠州に向けて出発した。
4月25日に秀吉がついに名護屋城に到着した、そこには次々と朝鮮から勝利の知らせが届いた、秀吉は上機嫌であった。
「ははは、旅の疲れも吹き飛ぶわ 緒戦からこの勢いであれば朝鮮は簡単に片付くであろう、すぐに降参して唐入りの案内をすれば死人も少なくて済むものを」
小西の第一軍は釜山から北上を続け180kmにある尚州(サンジュ)城を攻め落とし、26日には1000mの峠を越えて朝鮮の、ど真ん中の忠州(チュンジュ)に近づいた、釜山上陸から2週間、250km進んできたのだ。
「舅殿、敵の大軍が川の向こうに布陣しておりますな、凡そ1万ほどかと」
「うむ、正規兵のようじゃ、政府軍であろう、あの川は何と申すのじゃ」
通詞兼案内人の朝鮮人に行長が聞くと
「あれは漢城に流れ込む漢江(ハンガン)の支流であります、川の向こうの小高い城塞が弾琴台要害です」
「なるほど、あれを落すには迂回して後方から攻めるしかあるまい、それにしてもここは風光明媚な所じゃのう」
小西隊は弾琴台の東西から攻め寄せて鉄砲を撃ち込み、敵をかく乱した
後方からも城門を打ち破って攻め寄せ、追い込んだ
申砬将軍も城から打ち出て死に物狂いで激しく攻撃を仕掛けてきたが、武器の差と、兵数の差、さらに戦慣れした日本軍には太刀打ちできなかった
女真族との戦では活躍した申砬もここで戦死した、僅か一日の戦闘で忠州も占領されてしまった、ここから漢城までは100kmほどである、
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