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篤姫

2008-03-18 09:47:53 | Weblog
大河ドラマの篤姫を楽しみにみています.何故島津家から徳川将軍家の夫人である御台所になったかという疑問と、もう一つそこで篤姫はどういう対処をしたかということに興味をそそられたからです.大河ドラマの筋立てにはいつも違和感を覚えることが多いのですが、今回は一年間見たいと思います.

篤姫は幕府が終焉を迎えるまで実質的な大奥の主として知られています.明治維新を語る時には『幕府に勝海舟、薩摩に西郷隆盛がなかりせば・・・・・まし』という歴史の仮定がよく言われますが、現実には薩摩に西郷、幕府に勝がいて江戸の無血開城がなったわけです.しかしこれは表の話です.『表があれば裏がある.』『表大なれば裏も大なり.』桜沢先生の無双原理を思い出してください.これは先生が発明されたものではありません.先生が宣言された この世の姿(宇宙の秩序)の明確な説明 です.

この世の事実も全てこの原理が当てはまります.裏打ちされていない表は存在しません.この幕末の騒動には大いなる裏があるに違いありません.その最も大いなる存在が篤姫だったのではと思うのです.今回のテレビで篤姫が一(かつ)姫という名前であったことを知りました.この名前にも大いに心を動かされました。徳川家康が入内させた孫娘も一(かず)姫、そして14代将軍に降嫁されたのが、もう1人の幕末の人柱、和宮(かずのみや)でした.

女の生き方、今と違って『否や』はありません.ですが本質的には今も昔も同じです.最初の一歩に『否』をいえるかどうか位です.運命は永遠に続く選択の連続です.選択の段階では、二者択一、それを選ぶか選ばないか.選ぶということに自由を見出し、選ばないということに屈従を感じるのは、現代のウーマンリブの偏見(?)です.選ばないことは不自由ではなく、運命の享受の仕方であって、選んでも選ばなくても違う運命を享受しなければなりません.男が自由だというのも偏見です.男は一歩踏み出した運命を享受しなければなりません.それが責任というもので、男は踏み出した責任を、女は受け取った覚悟を果たすことに優れていなければならないと思います.

そういう訳で、篤姫がいかなる境遇を生き抜いたのか、その場その場でどのように判断を下したのか、それを考えるのが楽しみです.
コメント (2)
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