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随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・

2012-10-09 08:47:37 | 父の背負子1(随想古事記)
私達日本人の神話は『古事記』という物語として伝えられています。『フルツコトノフミ』、遠い昔に起こったことの記録という意味です。古事記は有名な次の冒頭の文から始まります。

『天地(あめつち)の初めて発(ヒラ)けし時、高天原(タカマガハラ)になりませる神の名(ミナ)はアメノミナカヌシノカミ、次にタカミムスビノカミ、次にカンムスビノカミ。この三柱(みはしら)の神はみな独り神にして、かくり身におわし給う。』

初めての古事記を、私は父の暗唱で聴きました。幼い日のその音の記憶が、私の古事記の原点です。現代最新の読み下しとは少し違いますが、私はこれが稗田阿礼の暗唱に近かったと感じています。その理由は、一に敬語の使い方、二に『かくり身』の扱い方です。そしてたった数行の短い文章の中に大きな問題が潜んでいると思います。その違いは大きく言って二つあります。そのひとつは敬語の問題、もう一つは日本人の物事の捉え方の問題です。


敬語の問題1.【なれるとなりませる】

第一の問題点は敬語で、最初に出てくる『なりませる』です。この言葉が最新読みの『なれる』とどう違うのか、これは日本人教育の根幹とも言うべき問題を含んでいます。

六世紀に百済の漢字博士王仁(ワニ)が漢字を伝えたとされています。古来詠み継がれて来た古事記の伝承を稗田阿礼(ヒエダノアレイ)が記憶し、漢字を使って太安万侶(オオノヤスマロ)が記述したとされています。その記述の仕方(後の人には読み方)には当然その人の音に対する心象というものが決定的な働きをしたと思います。そしてまたそのように読ませられた(あるいはその読み方に同感した)人々の心象も代々受け継がれて、結局日本人というものの心象になったはずです。その文章の読み下しは、受け継がれてきた心象を除外しては正しく読めないと思うのです。

父の代まで読み継いできた『なりませる』と、現代原典として最新版の古事記に統一された『なれる』との間にある事件、それは『敗戦』という国民の事件です。敗戦によって受け入れた占領政策による心象の断絶です。『なりませる』と言わねば済まなかった日本人の心が、『なれる』という言葉で済ませられるようになったのだと思います。そして私は父の心の音を受け継いで、『なれる』に違和感を禁じえません。

『なる』という単語は現在時代劇の『お成り』という将軍出座等に辛うじて残されています。貴人が現れることを、直接的な動作の表現を避けて『なる』といいました。全世界的に間接表現が敬意の表明(なぜ間接表明が敬意の表明になるのかという問題も解明されるべきですが)ですが、その心の奥にはもっと深い自然観察があって、それがこの神話の冒頭の『なる』という言葉だと思います。それは『繰り広げて出てきた』という意味です。そして何が『なる』のかというと、出現に至るまでの力がその因果関係を繰り広げて出て来たと言っているのです。『実がなる』のと同じです。新緑が芽吹き、花が咲いて小さな実を結び、やがては実が熟します。そのどの段階も省かれることはありません。それぞれの段階の木の力が、それぞれの姿を展開します。ひとつひとつの因果を踏んで現れ出たと言っているのです。

その尊敬の間接表現『なる』にもう一つ尊敬語『る・らる』を繰り返した『なれる』は十分丁寧で尊敬した言葉です。でもそれでも足りない日本人の心象があって『なりませる』という丁寧語の重ねがあったのだと思います。私達の存在の奥のそのまた奥の源泉でもある『アメノミナカヌシ』に対して『なれる』では足りないと感じた日本人の心象を私は大事にしたいと思います。
何を足りないと感じたのかと云うと、自分の立ち位置の表明です。今でも私達は日常の文体に『る』体と『ます』体とを持っています。私達はそれを使い分け、各場面に応じて敬語を重ねて意味合いや奥行きに違いを作りだしています。私達日本人は敬語に尊敬謙譲丁寧を兼ね備えなければ自分の位置を表し足りないと感じているのです。今も私達はそういう日本人の歴史を生きていると思います。


敬語の問題2.【名(みな)】

現代版では単純に『な』とふり仮名されています。太安万侶の漢字も『名』だけです。ですが私達は尊ぶべき神の『な』とは言えなかった筈です。現在でも対等の相手に対してさえ『お名前』『御芳名』などと使っています。ましてや宇宙の主である『アメノミナカヌシ』に対して『な』などと言えるはずもありません。『名』と単純に漢字一字であっても、日本人の心象は『みな』と読まねば済まない筈です。その証拠に私達は『天照大神』を『アマテラスオオミカミ』と読みます。太安万侶は、読み方は内容に応じるという前提を、当然のこととしたのでしょうか。あるいはまた帰化人で敬語を繰り返す必要を感じなかったのでしょうか。だとしたらますます稗田阿礼の口承がどんなものだったのか考えるべきだと思います。太安万侶の当てた字が稗田阿礼の音を映しているかどうかを考えるべきだと思います。そして太安万侶と稗田阿礼が誰だったのかも究明すべき問題だと思います。



日本人の考え方【かくり身】

第二の問題は、父の読み継ぐ『独り神にしてかくり身におわしたもう』です。このくだりは、手元にある現代版の古事記では『独り神となりまして、身を隠したまひき』となっています。現代の理解によると、この意味を独り神と対偶神との対比でとらえ、その姿をお見せになることはなかったとしています。私の個人的感覚による古事記の『え?』が始まったところです。『独り神として現れ身を隠された』と『独り神でかくり身でいらっしゃる』というのでは全然ちがったニュアンスを含んでいると思います。前者は意思を、後者は属性を感じさせます。そしてまた前者は過去の出来事として、後者は現在も続いていることとして受け止められます。

独り神は天地(あめつち)が初めて開かれるに関与なされたカミの姿です。まだ何にも分かれていない世界のカミで、かくり身というのはそのカミの本質が形を持たない『力』であると言っているのに違いありません。最初に現れたもの(アメノミナカヌシ)が『力』そのものだと言っているのです。その力があらゆるものを生み出していきます。

次のタカミムスビノカミもカンミムスビノカミも同じく独り神でかくり身です。この二つは元々一つのものが天地という二つのものに分かれる理由でもあり原因でもあります。アメノミナカヌシが天地として現れる時宇宙に作用する力(ムスビ)とその性質(タチ)が二種類あることを言っているからです。道教の思想で太一が二になったと表現されていることや、マクロビオティックで無限が陰陽に分かれたと言っていることと同じです。ですからこの二つのカミは、アメノミナカヌシが同時に持っている性質、作用を表したものです。そしてまた二つの性質のたどり着く先の姿(現れ方・天地)を示唆していると思います。
かくり身の神は、次にお生まれになる『ウマシアシカビヒコジノカミ』、『アメノトコタチノカミ』、『クニノトコタチノカミ』、『トヨクンヌノカミ』の全部で七柱です。

古事記ではアメノミナカヌシからアメノトコタチまでは特別に別天神(ことあまつかみ)、クニノトコタチとトヨクンヌは次に生まれる男女二柱の配偶神五代とともに神代七代に区別されています。この分類が正しいか、あるいは間違っているのか、これは古事記の編集にかかわる問題点です。現代の解釈では道教の影響で三・五・七という数字が編者にとって意味があったとかいわれています。

私はアメノトコタチ以下四柱のカミは、この天地における根源の力・アメノミナカヌシが地球上に形を持って現れる法則性を表現しているのだと思います。見えないものの兆しが現れ広がり確立して(ウマシアシカビヒコジ)様々に繁茂して(トヨクンヌ)いく、そこに関与しているアメノミナカヌシの二つの力、タカミムスヒとカムミムスヒとその作用が常立・国常立(常に・自在に)だと言っているのだと考えています。私に編集が許されるのなら、アメノミナカヌシからトヨクンヌまでの独り神・かくり身である七柱を一区切りにすべきではないかと思います。この『かくり身』という理解が日本神話を作った原日本人(ワタツ人)のもので、編集者の認識にはなかったのかもしれないと思っています。

次の陰陽二柱ずつの配偶神は、私達の天地である地球上でアメノミナカヌシの二つの力が現実のものとして形を現わして来る段階の順序です。先行する『かくり身』の世界が『うつし身』の世界に展開していきます。力だった物が形あるものになって変化していき、何かが角ぐみ成長していく、上に伸び横に広がり、太くなり、子を生みだす力を持っていくのです。形の無い力だった命が形を持ってくる表現なのだと思います。こうして私達は生まれたのだという表明なのだと思います。当然この世界は根源の力の二つの性質と作用を持って現れてきますから、全てのものが表裏相反するものを持って生まれることになり、最後に私達の現実社会の出発点イザナギ・イザナミが登場することになります。

余談ですが、私達日本人の有り難いという思いの先は、何時もこのアメノミナカヌシの天地を覆っている力の作用に向けられていると思います。様々な力になって現れて来る物の裏にある『かくり身』が私達を生かしている力の根源であると感じていたのだと思います。現代でも世界中で不思議がられる『ありがたい』と『もったいない』、『おかげ様』と『さようなら』という言葉に代表される日本人の暮らし方は、主格も目的格もなければ、一人称と二人称の区別もない日本人の『アメノミナカヌシ』に向かうメンタリティそのままなのだと思います。



我が国日本には偽書の疑いをかけられている古典がいくつかあります。その中に『ホツマ伝え』というものがありますが、この書ではアメノミナカヌシに始まる別分神五柱についてほとんど関心が無いように感じられます。国常立(クニトコタチ)からの神皇時代について詳しく述べています。如何に正しく麗しい思い遣りの溢れた統治をするかという点に主点がおかれています。言わば統治者の心構えのような感じです。第一代王が国常立、第二代が国狭槌(くにさづち)です。この国狭槌は国常立がお産みになった八王子の総称です。この八王子は、謎の伝承・トホカミヱヒタメの各一文字をその名に冠する八人の王子で世界各国の王室の祖となったとされています。東京の八王子という地名が何となく身近に感じられます。この八人の国狭槌は、槌、つまり武器によって世界に法を定められたのです。第三代は国狭槌のそれぞれ五人の王子の総称豊雲野(トヨクンヌ)です。豊かに広がった雲の字があてられています。この頃には世界各地で雲のように人口が増えたとされています。第四代がウヒチニで、この時代に結婚の制度が出来ました。スヒチニを妻とします。人類は野生の時代と決別したのです。この二神の幼名がモモヒナキ・モモヒナミで桃の節句の始まりであり、結婚式の始まりです。第五代がオオトノヂ(ツヌグヒ)・オオトマヘ(イククヒ)で男を大殿、女を御前と呼ぶ呼称の始まりとされています。つい百五十年前頃まで、私達は殿様と呼び、御前様と呼んでいました。第六代がオモダル・カシコネ両尊の御代ですが、お世継ぎが無く国内が乱れてしまったところを、クニトコタチまで遡って血筋をお求めになりイザナギ・イザナミ両尊がお継ぎになりました。これがホツマ伝えによる神代七代までのあらすじです。

『ホツマ伝え』には、日本の風習の起源、和歌の起源、単語の起源などが、思わず「あ、そうか」というような解説で語られています。こういった書が偽書とされているのは、現存する写本が江戸時代のものだとか、使われている紙が新しいとか、あまり決定的な証拠にはならない(と私が思う)理由からです。そういう問題があったとしても記述がすべて正しくないかどうかはまた別問題です。それは古事記に関しても日本書紀に関しても言えることです。そしてまた中国の正史とされている漢書についても魏志についても唐書についても、朝鮮半島の各王朝の正史についても言えることです。しかしシュリーマンのトロイの遺跡発見が物語っているように、何らかの事実が伝承を生んだのは間違いありません。あるいはその事実を曲げたいがために、偽り曲げたのかもしれません。要するに決定的に事実だとも事実でないとも言えないと思います。だとすれば排斥することだけは避けるべきではないでしょうか。研究の対象にするべきだと思います。『偽書学』とでも言うべき範疇を設けて、内容を選り分ける必要があると思います。


古事記は第四十代天武天皇の御代に編纂が始まり、第四十三代元明天皇の御代、西暦七一二年の完成とされています。その時『もう既に不詳不明になった』と天武天皇は日本の歴史伝承を嘆かれています。日本の歴史を正しく後世に残したいと願われ、後に記紀と呼ばれる古事記と日本書紀が誕生することになりました。日本書紀が外交的な意図で編纂されたといわれています。当時の外交は主として対中国と朝鮮半島だったのでしょうから、外交的意図の相手も限られています。その中国文化圏の正史というものは、易姓革命によって代った王朝によって前王朝の歴史が記録され、当事者の王朝の記録に国名が冠せられることはありません。当事者の記録は王朝文庫の内部に厳重に積み重ねられ、外に出されることはありません。大和朝廷が国外を見て正史を作成する必要はなかったと思います。『日本書紀』とはそういった大陸などの意思とは違った目的で編纂された命名法ではないかと思います。最近確信するようになったのですが、当時の王朝はたがいに周囲の王朝のことをよく知っていたと思います。王が何処の誰でその親が誰であるかということも姻戚関係もよく知っていました。中国大陸も朝鮮半島も、我が日本も互いによく知っていたと思います。

ではなぜ『日本書紀』と命名されたのでしょうか。このことと深く関わっているのが先行した古事記の編纂です。私は古事記の編纂がひとえに日本統一の確立を目的としていたと思います。古事記は日本に住む神々の名前を挙げ、その関係をつけるのが主な目的だったと思います。神々とは八世紀に日本に住んでいる人々の租神や氏族長のことです。そのことを軸に、日本人の心や生活の秩序を編み込みました。皇統を中心に各民族に伝わる古い伝説もとり入れました。建国の理想もとり入れました。それで古事記の神々の事績はほとんどが結婚とそこに生まれた神々の紹介です。全国の民族を網羅しなければならなかったので、神々も大王も何度も結婚し数多くの神々や御子を産まなければなりませんでした。

これを大和朝廷による歴史の捏造と見る向きもありますが、それよりもなお国と歴史の創造と私は解釈したいと思います。そして易姓ではなく、歴史を継いでいくという道を開いたのだと思います。古事記の神々を通して様々な種族に属する人々の共感を作りだし、古事記や日本書紀に神々の秩序を現実のものとして捉え直し、国内秩序の共通基盤を確立したのではないかと思います。古事記の成立以後も『まつろわぬ民』は存在し、外征としての蝦夷征伐、道鏡の皇位簒奪未遂事件等の様々な内乱を経て、十世紀には平将門の乱等を経験しますが、鎌倉時代前には日本の皇位というものに対する国民的な特殊感情も完成するのではないかと思います。その証拠は平清盛の熱病に対する罰当りの伝説や、大楠公に対する忠臣扱いと足利氏に対する逆臣扱い等に見られると思います。武家政権成立以後は江戸幕府が崩壊するまで、大和朝廷は国民の実生活から遠くなりましたが、天照大神は日本人の心の底におわすようになったと思います。

歴史が曲げられたという説もありますが、歴史が曲げられるのは世界の歴史の事実でもあります。曲げられなかった歴史がどんなものかは分かりませんが、それは断絶の歴史で確かめようがありません。中国大陸のように易姓という断絶を是としても事実は勝者によって曲げられるのです。天津神が国津神の娘をめとって混血の神々を作り出していく宥和政策を私は評価したいと思います。アレクサンダー大王のペルシャ遠征における結婚政策を思い出します。敗戦国の女達には屈辱の歴史かもしれませんが、新しい命を生み出す女達の生命力と母性本能が新しい国を生み出していきます。そこにはヘレニズム文化という遺産もあります。そして今も生きている日本文化というものが、世界の歴史に何をもたらすことができるのか、今も進行中の神々の事績です。



ヨーロッパの人々は映画でベンハーやシーザーを見て何を思うのでしょうか。これまで世界史が好きで歴史の登場人物に共感して生きて来たと思っていましたが、自分の生きた感覚に共鳴するものは無かったのではと感じるようになりました。世界史が好きだったのは、父の語る歴史話の影響です。ハンニバルやスキピオ、ナポレオンやネルソン提督、楠正成に源義経、父の生き生きと輝く顔を見ながら心躍らせて聴きました。中国大陸でのお話はもっぱら三国志、これには祖父の十八番の『水魚の交わり』の段の暗唱が加わりました。感動は真実だったとしても、私は写真の富士山を見ていたのと同じだったと思います。写真の富士山から、富士山の実情を酌みとることはできません。しかしそれが分からなければ歴史の色々な事件を実感することは出来ないと今感じています。ですが世界で最も幸運なことに、日本人は太古の昔から日本語を今に語り継いでいます。私達は古事記に、神話に手掛かりを持っているのです。

私達の年代が父親の歴史語りを聞くという経験を持った最後の世代かもしれないと思います。世の中は忙しくなりすぎました。親も忙しいし子供達も忙しい。私自身が最も大切な子供達に充分に語っていません。核家族で『代々』は無くなりつつあります。お正月の注連飾りの橙もむなしい風習になりました。ある日インスピレーションを受け取るべき温床を育てられなくなりました。そういう意味で私はブログを開いて様々な思い出話、随想、意見等を記事にすることにしました。我が子ばかりでなく誰か若者の目に触れて、私が昔父から受け取ったきっかけを残しておきたかったのです。今回そんなブログにこうして私の『随想古事記』を発表できることを、大変幸せに感じています。正しいか、間違っているかは別にして、いつか誰かのインスピレーションの種に、或いは苗床になれたらどんなに嬉しく有り難いことでしょうか。

ブログというものは、中断したらすべてなくなるのでしょうか。私は死ぬまでこのブログを開いておかなければならない・・・・・ここにほんの少し自分の役割を感じています。そしておこがましいのかもしれませんが、それが本にしたかった理由です。今日の記事は少し長くなりましたが、途中で切ることが出来ませんでした。(ametsuchino)





それでは今日も:

     私たちは横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
コメント (4)
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