私達の日本の神々は大別して、天津神と国津神の二つに分けられます。この区分名は創世紀・天地の初めて開けし時の『アメノトコタチ』『クニノトコタチ』に始まると思います。そして次が、『高天原におられる神々』と『イザナギ・イザナミの国生み・神生みによってお生まれになった神々』、次が『アマテラス』と『スサノオ』をそれぞれ租神とする神々、つまり天降(あもり)組と土着組で、この三代のアメクニ仕立てになっていると思います。そして天孫降臨以降天津神は皇統一系、国津神は様々な段階で臣籍に降下なさった神々となりました。神話から受け取る私達日本人の感覚は、宗家と分家とでも言いますか、一般的に、
租神は『アメノミナカヌシ』一つだけど、上下関係ははっきりとしている
といったようなものだと思います。これがどんな歴史的事実を反映しているのか、そしてこのことが日本民族の構成にどのように関係しているのか、そういった問題に大きな示唆を含んでいるように思います。というより、事実はもっともっと生臭いものだったかもしれませんが、日本人の知恵『臭いものには蓋』式の長い時間をかけて忘れるという解決法だったのかもしれません。
日本には偽書と怪しまれている歴史書があります。その中から代表を五つ選んで考えたいと思います。最古のものは『カタカムナノウタヒ』と呼ばれるもので、一万二千年前からの伝承と言われています。次に『三笠紀』、『ホツマ伝え』、『東流外(ツガルソト)三郡誌』の三つです。はっきりどれがどれくらい古いかは分かりません。記事の内容はどれも太古の昔に及びますが、前者二つが約二千年前、三つ目が書名から推測して千五百年前程度と思っています。
『東流外三郡誌』は、偽書であることが証明されたことになっていますが、私が興味をひかれるのは『東流』という当て字です。『つがる』と読みます。なぜ『東』を『つか(が)』と読むのか、これは川崎先生でないと解明できない問題です。そして偽書であったにせよ、そこに『東流』を『つかる』と読む事実が伝えられていると思います。ブログ記事『五色人の謎』シリーズで世界の民族・部族をご紹介しましたが、これはまさしく高句麗以後の『順奴部』(鳥族)以外のなにものでもありません。そして現代の『津軽』の語源なのです。当然そこには『順奴部』の記憶が残されているはずです。
『ホツマ伝え』と『三笠文』は私が知る限りで、景行天皇に奉呈されたと伝えられています。第十二代天皇で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父君です。ホツマの国作り、ホツマの心映え、そんな大和の国柄を説いています。
最後の五つ目が『古事記・日本書紀』です。この二書は成立もはっきりしていて、西暦七百十二年に古事記が、七百二十年に日本書紀の編集が完成、どちらも八世紀のことです。偽書とされるいわれはないのですが、内容が曲げられて歴史の真実を語っていないという説も多くあります。
『カタカムナノウタヒ』は多くの日本語の原出典です。『アメ』と『クニ』の大別法もここからだと思われます。しかし意味はもう既に古事記どころかホツマ伝え成立時代には不明で誤解されています。楢崎・宇野両先生の解読に全面的に負っている『カタカムナノウタヒ』は、両師の教えによると『アメ』が『クニ』に変化していく過程を教えていますが、後にそれを語呂よく利用したのだと思います。『カタカムナノウタヒ』は社会的身分にも制度にも言及していません。ましてや神様も王様もいません。物事の筋道、生命の筋道が明らかにされているだけです。それ以後の史書ではすでに身分関係や行政機構が出来上がっています。内容的に『カタカムナノウタヒ』と『ホツマ伝え』群との間には一万年以上の年月の差があり、その長い年月の間に日本列島の構成民族も複雑多様になったはずです。日本の社会はアジア大陸の歴史の一部として大きく様変わりしたのだと思います。『カタカムナノウタヒ』の時代の賢者は生命を知るもの、『ホツマ伝え』以後の賢者は人倫の道を知るものになりました。時代を下るにつれ小賢しくなるのは仕方のないことかもしれません。しかし楢崎・宇野両先生が仰るように、この『カタカムナノウタヒ』に私達日本人が今も生きている日本語の原点があります。私達日本人の脳の『あめつちのひらけし』ところは、この『カタカムナノウタヒ』であると私は確信しています。
最後の『記紀』は大和朝廷の編纂で、歴史を明らかにするためとされています。私達が『日本』という国号を意識した時代のもので、複雑になった人間関係の中で、現代まで通用する日本人のアイデンティティをこれによって作り上げたのだと私は思っています。それは為政者として当然のことで、現代の私達はその真実と虚構の真実をどちらも正当に評価しないといけないと思います。何れにしろ私達はその二千年の命を生きているので、もう一つのあったかもしれない命は私達ではないのです。その暖かい覚悟を持って『記紀』は読まれるべきだと思います。(amatsukami & kunitsukami)
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
租神は『アメノミナカヌシ』一つだけど、上下関係ははっきりとしている
といったようなものだと思います。これがどんな歴史的事実を反映しているのか、そしてこのことが日本民族の構成にどのように関係しているのか、そういった問題に大きな示唆を含んでいるように思います。というより、事実はもっともっと生臭いものだったかもしれませんが、日本人の知恵『臭いものには蓋』式の長い時間をかけて忘れるという解決法だったのかもしれません。
日本には偽書と怪しまれている歴史書があります。その中から代表を五つ選んで考えたいと思います。最古のものは『カタカムナノウタヒ』と呼ばれるもので、一万二千年前からの伝承と言われています。次に『三笠紀』、『ホツマ伝え』、『東流外(ツガルソト)三郡誌』の三つです。はっきりどれがどれくらい古いかは分かりません。記事の内容はどれも太古の昔に及びますが、前者二つが約二千年前、三つ目が書名から推測して千五百年前程度と思っています。
『東流外三郡誌』は、偽書であることが証明されたことになっていますが、私が興味をひかれるのは『東流』という当て字です。『つがる』と読みます。なぜ『東』を『つか(が)』と読むのか、これは川崎先生でないと解明できない問題です。そして偽書であったにせよ、そこに『東流』を『つかる』と読む事実が伝えられていると思います。ブログ記事『五色人の謎』シリーズで世界の民族・部族をご紹介しましたが、これはまさしく高句麗以後の『順奴部』(鳥族)以外のなにものでもありません。そして現代の『津軽』の語源なのです。当然そこには『順奴部』の記憶が残されているはずです。
『ホツマ伝え』と『三笠文』は私が知る限りで、景行天皇に奉呈されたと伝えられています。第十二代天皇で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父君です。ホツマの国作り、ホツマの心映え、そんな大和の国柄を説いています。
最後の五つ目が『古事記・日本書紀』です。この二書は成立もはっきりしていて、西暦七百十二年に古事記が、七百二十年に日本書紀の編集が完成、どちらも八世紀のことです。偽書とされるいわれはないのですが、内容が曲げられて歴史の真実を語っていないという説も多くあります。
『カタカムナノウタヒ』は多くの日本語の原出典です。『アメ』と『クニ』の大別法もここからだと思われます。しかし意味はもう既に古事記どころかホツマ伝え成立時代には不明で誤解されています。楢崎・宇野両先生の解読に全面的に負っている『カタカムナノウタヒ』は、両師の教えによると『アメ』が『クニ』に変化していく過程を教えていますが、後にそれを語呂よく利用したのだと思います。『カタカムナノウタヒ』は社会的身分にも制度にも言及していません。ましてや神様も王様もいません。物事の筋道、生命の筋道が明らかにされているだけです。それ以後の史書ではすでに身分関係や行政機構が出来上がっています。内容的に『カタカムナノウタヒ』と『ホツマ伝え』群との間には一万年以上の年月の差があり、その長い年月の間に日本列島の構成民族も複雑多様になったはずです。日本の社会はアジア大陸の歴史の一部として大きく様変わりしたのだと思います。『カタカムナノウタヒ』の時代の賢者は生命を知るもの、『ホツマ伝え』以後の賢者は人倫の道を知るものになりました。時代を下るにつれ小賢しくなるのは仕方のないことかもしれません。しかし楢崎・宇野両先生が仰るように、この『カタカムナノウタヒ』に私達日本人が今も生きている日本語の原点があります。私達日本人の脳の『あめつちのひらけし』ところは、この『カタカムナノウタヒ』であると私は確信しています。
最後の『記紀』は大和朝廷の編纂で、歴史を明らかにするためとされています。私達が『日本』という国号を意識した時代のもので、複雑になった人間関係の中で、現代まで通用する日本人のアイデンティティをこれによって作り上げたのだと私は思っています。それは為政者として当然のことで、現代の私達はその真実と虚構の真実をどちらも正当に評価しないといけないと思います。何れにしろ私達はその二千年の命を生きているので、もう一つのあったかもしれない命は私達ではないのです。その暖かい覚悟を持って『記紀』は読まれるべきだと思います。(amatsukami & kunitsukami)
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!