アマテラスから神武天皇(1-2)
第二の問題、天孫降臨の地が何故出雲ではなく高千穂だったのでしょうか。これは高千穂にする以外にない事実、つまり神武天皇の実際の御出身地を優先したのだと思う以外にありません。ニニギノミコトは宮崎県の高千穂か、九州のどこかの高千穂と呼べるような場所に来られたのです。海幸山幸事件は宮崎・鹿児島のお話であり、山幸のホホデミノミコトは蛇族の豊玉姫と結婚をしてウガヤフキアワセズノミコトがお生まれになりました。そして豊玉姫の妹・玉依姫との間に若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)、つまり大和朝廷の太祖ともいうべき神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、漢風諡号で神武天皇がお生まれになりました。此処に初めて『倭』なる字を見つけることができます。偶然の一致ではない筈です。つまり神武天皇が『倭(邪馬)』族でいらっしゃったということです。
『倭』とは日本および日本人のことだと思っておられる方が多いと思います。私もそう思っていました。しかしそうではなく漢字圏には他にもあると川崎先生はおっしゃっています。またその旁は偏になって『魏』という国名にもなり、その音は『イ』は『李氏』という家族名になっているとおっしゃっています。中国を脅かした異民族の中にも『倭』という名をもつ民族があると述べておられます。身近には有名(?)な『倭寇』が日本の海賊だけではないことを私達は知っています。
ここから以後畏れ多いことながら、敢えて自説を明らかにしたいと思います。川崎先生のおっしゃるように倭族は犬族です。世界史でも歴史をかえてきた民族です。高校だったと思うのですが、世界史で突如現れた『ヒッタイト』という民族が鉄の武器で圧倒的な力をもって中近東を征服したと教えられました。ヒッタイトがそれからどうなったのか歴史上不明ですが、彼らこそが『犬』族の代表格で、『犬と鉄』は世界史のキーワードだと思います。『犬族』が世界史を切り裂いていったのです。
中国大陸で実際に存在が証明されている殷帝国は鳥族、つまり猪(邪馬)族が王族で犬族が有力部族として存在しました。周から追われて拡散した中で、もともと同族だった縄文人のいる日本列島に逃れた殷帝国の流民が建てたのが邪馬台国だったと思います。その中で倭族は南九州に勢力圏をはったのだと思います。そしてやがて九州全域を支配しました。なぜかというと先住の縄文人の力を得たからです。それが山幸彦と豊玉姫のお話であり、ウガヤフキアワセズノミコトと玉依姫のお話しなのだと思います。そして豊玉姫が出産のために上陸された渚が、『豊の国』つまり後の豊前豊後の国だろうと思います。大陸各地の犬族に使用された『倭』を『邪馬』族として固有の『和』に変え『大和』を『ヤマト』と呼称した道筋もこれで明らかになって来ると思います。『天孫降臨』は事実であり、それは殷滅亡の紀元前1300年以降のことです。
最後に最大の矛盾点・なぜ天照大神は出雲に国譲りを強要なさったのでしょうか。なぜ天照の子孫が治めるべき国だと統治権を主張なさったのでしょうか。なるほど古事記編纂時の天武王朝の都合だとすることもできるでしょう。しかし何かしらの正当性が無ければ物語としての辻褄が合わないし、多くの人の納得も得られないのではないかと思います。そしてこれが『神武東征』でなく『神武東遷』とする最大の理由であったはずです。
アマテラスとスサノオの結婚説があります。誓約で互いの子を産まれたので、オシホミミノミコトはスサノオの出雲の後継者だとも言えなくもありません。ですがそれは長子相続に正当性が認められている場合だけです。
川崎先生の説に魏志倭人伝の『投馬』国が出雲ではなかったのかというのがあります。そしてこの『投馬』は確かめたわけではないが、宮内省管轄の文書には『於投馬』とあるらしいとも書かれています。そしてそれが川崎先生のご専門の音声学的変遷から『イヅモ』であるとおっしゃっているのです。私はその『おとま』が『ホツマ』である可能性があると思います。だとすれば天照大神が統治権を主張なさるのもよくわかります。ホツマ伝えの伝承では、ホツマの国は天照大神の国なのですから。古事記だけではわからない理由ですが、当時の人々は色々な事情を知っていたはずです。
『於投馬』がたとえ『ホツマ』であったにしても、その字は一体何を語っているのでしょうか。川崎先生は『馬に投げられた』と仰っていますが、私はちょっと違う意見です。私は『馬を投げたところ』という意味だと思うのです。そこ(つまりホツマの国)で馬族を投げて牛族のスサノオノミコトが『出雲』を建てられたのだと思います。それで『於投馬』が『出雲』になったのだと思います。馬族の土地であったのに牛族に取られていたところを、天照大神は馬族の主神として、返還を要求なさったという筋書きです。歴史学界の主張通り、天神族は馬トーテム族なのですから。(この馬族に関しては、異論ありです。馬は邪馬だったのです。)
もちろん領土争いは単純ではありません。その証拠に大国主の息子である『建御名方(タケミナカタ)』は不承知で、実力行使に派遣された『建御雷(タケミカズチ)』と争います。そして諏訪地方に逃げて諏訪神社の祭神となります。諏訪神社の氏子たちは建御名方の子孫で、独自の精神性を武田信玄に併合されるまで維持し続けます。しかし取り上げた側が、相手が不承知だったと記録するのは、正直な記述法だと思います。(Great Peace)
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!