日本人が守って来たもの(2-2)
ヨーロッパに現存する国で一番古いのはどの国でしょうか。ローマ教皇国かもしれません。都市としては古い町はあるかもしれませんが、多分どの国も十世紀以後の国です。アフリカは人類発祥の地で、古代エジプトは世界最古の文明を誇った国ですが、クレオパトラのエジプトはマケドニア人の王朝で、アフリカのエジプト人の王朝ではありません。エジプト人のエジプト王朝は征服されたのです。その王朝もローマ帝国によって滅ぼされました。ローマ帝国の分裂・滅亡以降地中海沿岸には王国がいくつか興亡しますが、イスラム教を国教にした王国の版図に入ります。その後大航海時代を迎えたヨーロッパ社会の非人道的振舞によりアフリカ独自の知られていない歴史が殆んど消えてしまいました。エチオピアだけは残りましたが、世界史上最古の三千年の歴史を持ったエチオピア王朝の歴史も先年途絶えてしまいました。日本人の記憶に鮮烈に残っているマラソンの哲人アベベ・ビキラ選手は、最後のハイレ・セラシュ皇帝の歴史を負ったランナーだったのです。
南北両アメリカはどうだったのでしょうか。私達原日本人とほぼ近いモンゴロイドが原住民として住んでいました。アメリカ・インディアンとして有名な白人を恐れさせた部族達は近代的な国家をなして暮らしていなかったようです。中央アメリカから南アメリカの太平洋側には王国の歴史があります。マヤ文明やインカ文明として有名ですが、そうした国家は十六世紀にヨーロッパ白人社会に滅ぼされてしまいます。
現在生きている人々をどこかの国の末裔だと言うことはできます。全世界に古代人の末裔でない人間はいませんが、途切れたものをつなぐことは出来ません。可能性として復興させることはできますが、途切れなかった歴史には戻りません。それはなぜかというと、時間が命だからです。時間は目盛ではありません。生命体は電池と同じで、電気のポテンシャルを閉じ込めたものです。ポテンシャルを何ボルトと目盛ることはできますが、ボルトは電気の力そのものではないのです。ですから過去に目盛をふることはできますが、動いている時間を捕まえて客観視はできません。瞬間は時間の中身が現れている先端で、今の瞬間も未来も目盛ることは出来ません。本当は過去も目盛ることは出来ないのですが、頭の中にある表になった過去に便宜上目盛をふることができるだけです。昔に戻ることはありません。つまり歴史は作り変えることが出来ません。途切れたものは別の道を選んだので、途切れなかったものとは違うのです。
そういう意味で私達の日本という国は、今では世界にたったひとつ二千年以上途切れてない同じ国を生きています。そして人類滅亡の日までつないでいく可能性を秘めたたった一つの国です。ですから日本の国民は日本をつないでいくことが最大の義務だと思わなければなりません。そんな国柄を私達は織りあげてきました。否応もありません。私達は日本という織機にかけられた糸であり、杼に巻かれた糸なのです。しかし現代の私達は自分の国がどんな模様を織るように糸をかけられているのかを知らずに日本という国に住んでいるような気がします。『国とは何か』という思いもありません。現代の日本国民にとって国は天与の条件の一つに過ぎないように見えます。そして昔の国民が少なくとも畏れを持って考えたその『天』が何であるかもまた知りません。
この問題に私達の神話は答えを提供しているように思います。そしてそれが『古事記』を編纂した意図でもあると思います。『古事記』は機織りのデザイン図です。そしてその意匠は国号に秘められた『大和』の理念、誤解を恐れずに言いたい『八紘をおおって宇(いえ)となさん』との神武天皇の大号令は、人類の願いである世界恒久平和の理念です。そして明治天皇の御製
四方の海 みなはらからと 思う世に
など波風の たちさわぐらん
に明らかにされています。明治天皇の五ヶ条の御誓文は、そんな国の近代的君主の誓いのお言葉で、聖徳太子の十七条憲法は、そんな国に仕える行政官に心構えをお示しになったものです。では私達国民はどんな誓いと心構えで暮らしたらいいのでしょう。それは親に習う心で聖徳太子のお心や、明治天皇のお心を、わが身になぞらえればいいのです。『大和』の心をいつも考えるべきです。そして自国(自分)を守り、他国(他人)を思いやることの厳しさを、安易に考えない事です。口先だけの偽善と欺瞞に紛れ込まないことです。(余談ながら、マクロビオティックの桜澤先生は、如何にして世界恒久平和を成し遂げるか、世界で唯一その具体案を示しておられます。)
神話のアイデンティティによって私達は易姓革命による王朝の交替を否定し、アマテラスの皇統に委任されたものが統治するという交替方法を編み出しました。これは力の交替という現実社会の必然性によって権力闘争が繰り返される国内騒乱の悲劇を克服するものです。王朝を安定させることは、時代の必要性から生まれる変革に限度と秩序を与えることです。それは与り知らぬ一般国民の幸せに貢献したと思います。
大和朝廷が歴史の表舞台から身を隠された鎌倉政権以後、私達は朝廷が何をなさっておられたのか殆んど知りません。しかし【かくり身】のアメノミナカヌシのように国民生活の安寧を祈って来られた筈です。かくり身の大和朝廷は百万ボルトの幕府の電圧を支える地下の伏流のようにマイナス百万ボルトの祈りを千年の間捧げて来られたのだと思います。私達はこうして現実社会で『主(ヌシ)』なる言葉の実態を実現することに成功しました。『主』とはカタカムナとして残された海津族の言葉で、目には見えないが間違いなく在るチカラを表している『ヌシ』という言葉から出来たのです。『ヌシ』とはもともと『かくり身』なのです。
何度も言うようですが、日本の『大和(だいわ)』の歴史は世界史上の大実験なのだと思います。そこから生まれ出てくる様々な選択を私達日本人は繋いでいます。『大和』というものが実現できるのか、時として試行錯誤しながら大実験の続きを生きる国民に、神話はそのことを語っているのだと思います。私達はよくよくそのことを噛みしめなければいけないと思います。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!