『おそれながら・・私の仮説』で『随想古事記』のシリーズとしての発表を一段落させたいと思います。読んで下さった皆様にお礼申し上げます。
以前にもお話したかもしれませんが、古典の範疇に入っている書物の著者は別にして、私には尊敬をこめて師と呼ばせて頂く方が五人いらっしゃいます。第一にカタカムナ解読の楢崎皐月先生と宇野多美恵先生、次にマクロビオティックの桜澤如一先生と久司道夫先生、最後に言語歴史学の川崎真治先生の五人の方々です。直接お会いしたことがあるのは久司先生だけです。また私にとって両親は、古事記で言うアメノミナカヌシ以来の歳月の記憶と同じです。私の古事記は両親から受け継いだものに、それ以後私の周囲に袖振り合った様々な出会いで得ることのできた意味付けによって成り立っています。この五人の先生方が私の記憶に入り込んで下さった賜物です。私の記憶は言わば受け売りで、それが誘発した新しい記憶ともいうべきものが、今回の随想になりました。ここまで付き合って読んでいただいて、こんなに嬉しいことはありません。
私の父は深江圭三といいます。もう亡くなって二十年近くなります。父は大正十一年生まれで、仙台幼年学校を卒業し、陸軍士官学校の第五十六期生です。多くの同期生が亡くなった大東亜戦争を一日違いで生き残りました。敗戦による終戦が決まった日、父がどんな思いでその日を過ごしたのか、もう誰も知りません。父の姉である伯母から聞いた『自決しないかと心配した』という言葉だけが当時の家族の緊迫感を伝えていると思います。父は茫然自失状態で列車に乗って平戸に帰って来たらしく、軍刀に仕立てなおした先祖伝来の刀を列車の中で紛失したのだか、盗まれたのだか、それこそ丸腰になって帰って来たとその伯母から聞きました。
若い父はそれから結婚し、私が生まれました。弟も年子で生まれました。その頃の写真を見ると、筒袖のような着物を着ています。あまり覚えているわけもありませんが、父の懐の桜のような匂いが写真を見ると頭の中に薫ってきます。ブログ記事の『とんご柿』の思い出もこの頃のことです。それから自衛隊が結成されて、父は航空自衛官になりました。北は宮城県矢本から九州の福岡県築城まで、私と弟は転校しながら全国的に移動しました。
戦後一変した価値観の中で父は前時代の価値観で生きている人と思われて生きました。父の時代、自衛隊は名誉ある地位を与えられていませんでした。陸軍大尉の誇りを胸に秘めた父にとって処し難い時代だったと思います。それでも私にとって父は光り輝いている人でした。私の目に映る父は学校のどんな先生よりも優れていました。尋ねて知らない事はありませんでした。
父は自衛官を退官した後、本州製紙の富士工場の男子寮の舎監をしました。母にとってはかなり抵抗があった模様です。でも父という人は自分にこだわりのない誠実な人生を送ったと思います。母がつけた父のあだ名は『貧乏仙人』というものでした。子供のころは『旗色鮮明』というのが家族内のあだ名だったそうです。祖父母の意見の食い違いにいつも、『はい、お父様が悪い』と祖母に軍配を上げていたのだそうです。『徹底居士』というのもあります。年の瀬のお掃除はいつも大変でした。家族は全員空腹を抱えてお掃除に精を出したものです。
舎監時代のエピソードです。父の所へは定期的に『お巡りさん』がやってきました。父が笑いながら言うには、父は要注意人物で警察のリストに載っていたらしいのです。『右翼』だったのだそうです。父はいつも『自分は真ん中だ!!』と言っていましたが、警察官と交流が持てることが嬉しかったそうです。そしてその警察官は父に敬意を払ってくれるようになりました。世に受け入れられない自衛官は何かと窮屈な身分でしたから、自由に話ができる『男子寮の舎監』の身分を喜んでいました。
あの父が要注意人物なら、私も要注意人物になりたいと思います。父は私の過去であり、現在のお手本です。例え少しではあっても父の心を私は文字に残して未来に託したいと思います。父から娘へ、そして娘から孫へと歴史を紡いでいきたいと思います。父から背中に負わされたものを、子供達に、若者に、そして孫達に渡さなければと思います。これがこのブログのカテゴリーを『父の背負子』とした理由です。これで一連の『随想古事記』は終わりです。古事記にはもっとたくさんの物語が描かれています。どうぞご自分で探って『記憶の謎』を解明してください。これまで読んで頂いて有難うございます。本当に有難うございます。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
以前にもお話したかもしれませんが、古典の範疇に入っている書物の著者は別にして、私には尊敬をこめて師と呼ばせて頂く方が五人いらっしゃいます。第一にカタカムナ解読の楢崎皐月先生と宇野多美恵先生、次にマクロビオティックの桜澤如一先生と久司道夫先生、最後に言語歴史学の川崎真治先生の五人の方々です。直接お会いしたことがあるのは久司先生だけです。また私にとって両親は、古事記で言うアメノミナカヌシ以来の歳月の記憶と同じです。私の古事記は両親から受け継いだものに、それ以後私の周囲に袖振り合った様々な出会いで得ることのできた意味付けによって成り立っています。この五人の先生方が私の記憶に入り込んで下さった賜物です。私の記憶は言わば受け売りで、それが誘発した新しい記憶ともいうべきものが、今回の随想になりました。ここまで付き合って読んでいただいて、こんなに嬉しいことはありません。
私の父は深江圭三といいます。もう亡くなって二十年近くなります。父は大正十一年生まれで、仙台幼年学校を卒業し、陸軍士官学校の第五十六期生です。多くの同期生が亡くなった大東亜戦争を一日違いで生き残りました。敗戦による終戦が決まった日、父がどんな思いでその日を過ごしたのか、もう誰も知りません。父の姉である伯母から聞いた『自決しないかと心配した』という言葉だけが当時の家族の緊迫感を伝えていると思います。父は茫然自失状態で列車に乗って平戸に帰って来たらしく、軍刀に仕立てなおした先祖伝来の刀を列車の中で紛失したのだか、盗まれたのだか、それこそ丸腰になって帰って来たとその伯母から聞きました。
若い父はそれから結婚し、私が生まれました。弟も年子で生まれました。その頃の写真を見ると、筒袖のような着物を着ています。あまり覚えているわけもありませんが、父の懐の桜のような匂いが写真を見ると頭の中に薫ってきます。ブログ記事の『とんご柿』の思い出もこの頃のことです。それから自衛隊が結成されて、父は航空自衛官になりました。北は宮城県矢本から九州の福岡県築城まで、私と弟は転校しながら全国的に移動しました。
戦後一変した価値観の中で父は前時代の価値観で生きている人と思われて生きました。父の時代、自衛隊は名誉ある地位を与えられていませんでした。陸軍大尉の誇りを胸に秘めた父にとって処し難い時代だったと思います。それでも私にとって父は光り輝いている人でした。私の目に映る父は学校のどんな先生よりも優れていました。尋ねて知らない事はありませんでした。
父は自衛官を退官した後、本州製紙の富士工場の男子寮の舎監をしました。母にとってはかなり抵抗があった模様です。でも父という人は自分にこだわりのない誠実な人生を送ったと思います。母がつけた父のあだ名は『貧乏仙人』というものでした。子供のころは『旗色鮮明』というのが家族内のあだ名だったそうです。祖父母の意見の食い違いにいつも、『はい、お父様が悪い』と祖母に軍配を上げていたのだそうです。『徹底居士』というのもあります。年の瀬のお掃除はいつも大変でした。家族は全員空腹を抱えてお掃除に精を出したものです。
舎監時代のエピソードです。父の所へは定期的に『お巡りさん』がやってきました。父が笑いながら言うには、父は要注意人物で警察のリストに載っていたらしいのです。『右翼』だったのだそうです。父はいつも『自分は真ん中だ!!』と言っていましたが、警察官と交流が持てることが嬉しかったそうです。そしてその警察官は父に敬意を払ってくれるようになりました。世に受け入れられない自衛官は何かと窮屈な身分でしたから、自由に話ができる『男子寮の舎監』の身分を喜んでいました。
あの父が要注意人物なら、私も要注意人物になりたいと思います。父は私の過去であり、現在のお手本です。例え少しではあっても父の心を私は文字に残して未来に託したいと思います。父から娘へ、そして娘から孫へと歴史を紡いでいきたいと思います。父から背中に負わされたものを、子供達に、若者に、そして孫達に渡さなければと思います。これがこのブログのカテゴリーを『父の背負子』とした理由です。これで一連の『随想古事記』は終わりです。古事記にはもっとたくさんの物語が描かれています。どうぞご自分で探って『記憶の謎』を解明してください。これまで読んで頂いて有難うございます。本当に有難うございます。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!