正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・・・・・マサカツ・アカツ・カチハヤヒ・アメノオシホミミノミコトと読みます。天照大神の第一皇子です。長いお名前ですが、私が思うにマサカツアカツカチハヤヒの天之忍穂耳命というわけで、カタカナの部分はアマテラスの喜びの感想句です。『天之』が苗字で『忍穂耳』が名前です。この皇子が天下りなさる筈でしたが、そのまた皇子、つまり天津日子日高番能邇々芸能命・・・・・アマツヒコヒコホノニニギノミコトがヒムカの高千穂に天下られまして、わが日本の国づくりが始まったといわれています。この方の苗字は同じく『天之』ですが、それを天津日子と呼びなおして続き柄に置き換えさらにその中でも日高で番(ホ)である邇々芸能というお名前の皇子と言っています。
私達が初めて『古事記』に触れて、多分誰しもが抱く違和感・・・・・明らかに現代の私達が使っている日本語と漢字の関係と同じ当て方と、全く何処からとってきたのかというような訳の分からぬ漢字の当て方・・・・・・そして古事記の原文にも漢文としての現代の用法と同じものと、これにもまた何処からとって当てたのかというようなものとがあることを知ります。万葉集などを含め、これが漢字採用字の混乱と高校時代に片付けられても、心の奥底にすっきりとしない違和感は消えず抱き続けるしかありませんでした。多分これが私なりの歴史探求のきっかけだろうと思っています。(これについては、以前にも書きましたが、東海・中部地方に住んでみて随分と共感を持つようになりました。)
そして勝手に師と仰がせていただいている川崎真治先生の御本に触れ段々ともやが晴れてくるのを感じてきました。その中に苗字というものが部族や家門を表しているから『姓・カバネ』といい、天皇家の苗字は『阿毎・アマイ』だと中国の史書に残っている・・・・・とありました。父から教えられた最高位と最下位の身分に苗字がない日本の国柄・・・・・苗字を持つものはみな朝廷の家来だと・・・・・いつ朝廷は苗字をお捨てになったのだろう?????(多分これの答えが、最初に書いた苗字は同じく『天之』ですが、それを天津日子と呼びなおして続き柄に置き換え、というくだりにあるのだと思います。)さらには歴史界に横行する様々な歴史改竄説や乗っ取り説・・・・・果ては自分が王朝の正統だと主張する輩ども・・・・・(今ではそれらが全部有りでもなお、それが錬金融和国家『大和朝廷』を築き上げられたことに由来するのだと、確固たる自分のアイデンティティに落ち着きました。)
ですが、どうしても、『どういうわけでその字を当てているのか?』というようなことがずっと気になってたまりませんし、日常生活に埋没していてもふと夢に出てきたり・・・・・気が済まないんです。例えば始めに出てきた天津日子日高番能邇々芸能命・・・・・この方のお名前でも、どうして日子日高なのか、コノハナノサクヤヒメとの間に生まれるホヲリノミコト(通称山幸彦)は、天津日高日子ホホデミノミコトといわれるんですよ。日子日高(ヒコヒコ)が日高日子になっているんです。どうして順番が違うのか、どうして繰り返さなければならないのか、どうして『高』の字なのか・・・・・悩みは尽きません。その中には、どうしてもそうしなければならない理由と、単なる体裁上の理由とがあったに違いないのです。
そんな中ふと夢にヒントを得たことがあります。それが今日のタイトルの『比売・郎女』・・・・・『ヒメ・イラツメ』です。(まあ、ヒコ・イラツコでもいいのですが。私達日本語の音の原感覚(カタカムナ・・・・・日本列島には多様な民族がやってきましたが、そこには歴然とした言語体系があって、その許容度の大きさにより取り込まれてしまい現代の日本語として集大成していったのだと思います。)によって考えれば『コ』は繰り返し、『メ』は新しい兆しのような意味で、受け継がれる命の『コ』が男(家系)、『メ』が女(嫁に行って脇芽の家系)を表すようになったと思います。古事記の前半では大方が『比売』で後半は『郎女』が混じってきて多くなります。私が知っている限りでは、開花天皇の孫のお妃として『郎女』が出てきます。ヤマトタケルの大叔父(この頃の血縁関係は不明です)の妃ですか?????そこからは大体みな『郎女』・・・・・ずっと理由はもちろん、全く訳のわからないことでした。ですが前回『平・比良・ヒラ・イラ・・・・』について書いたこともあっての成り行きだったのかと思いますが、『ヒメ』から『イラツメ』になったことも、これは私の仮説ですが、基本的に『ヒ』と『イラツ』が全く同じものだったからではないかと思いあたりました。
現代人になじみなのは『彦・姫』ですが、古事記時代には『比古・比売』『毘古・毘売』でした。『日子・彦』『日女・姫』になったのには画期的な出来事があったのだと思います。そもそも『子』は孔子や老子などに使われているように敬称でしたし『女』は今で言う娘のことでした。この現代の娘は『郎女』から出てきたのではと思います。『日子』『日女』が出てくるのは『日いづる国』が念頭に出てきて、ヤマトが日本になってからだろうかと考えています。古事記には時間的にも当時の過去と現在が同時に存在していると思います。『比』と『毘』の扱い方にそれほどの差があるとは思えませんが、 或いは『比』は犬族で『毘』は邪馬(鳥)族と蛇族かもしれません。用いられなかった『彦』と『姫』が牛族ならば、姫姓は牛族だといわれる川崎先生の説とも合うような気がします。このような区別は大和民族成立後段々と忘れられ、あるいは意図的に捨てられたのだと思います。漢字以前の民族も漢字になれ漢字に熟達してやってきた民族も加わり、私達の漢字はすっきりと整理されていきました。それで整理されてから見れば、訳の分からない漢字になったのだと思います。その整理の時代、熟達していた民族の必要と感覚に応じて、当て字の取捨選択が行われたのだと思います。
どうして『メ』に『売』が当てられたのか?????・・・・・これはmとbとがものすごく近い音だったのだろうと思います。現代の私達の日本語の中にも『さびしい』と『さみしい』、『望』の音に『ぼう』と『もう』が混在している等々のように、中国では私達の『米国』が『美国』であるように・・・・・民族と移り過ぎてきた時空を超えて、私のテーマである『バベルの塔』事件を象徴しているように思えてなりません。私達は皆アフリカから出発して、様々に展開し、今多くの違いと問題を抱えていますが、いずれまた収束し一つになる点を模索し続けていくのが人類の運命のように思います。そこに錬金国家・大和なる日本の歴史が灯台としてのお役目を与えられているように思います。