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世相あれこれ

2010-12-08 10:48:58 | Weblog
ここ数カ月尖閣諸島で領海を侵犯され、我が日本の防衛事情が明るみに引き出されました。私たち一般人はやっとここまで来て何とか事情を知り始めましたが、国土をぐるりと取り囲んでいる海で生活をしている人々、そしてその治安維持にあたっておられる海上保安庁に勤務しておられる方々にはずっと以前からの緊迫した事情だったのです。そして今回私たちが知ったのは、現実を映し出したフィルムの語る緊迫した現場と政治のお粗末さと公務員の義挙という義務違反でした。

義挙と言って私達日本人の頭に浮かぶものは、赤穂義士の吉良邸討ち入りです。公方様のお膝元で庶民が待ち望んだ赤穂浪人の敵討ち!大石内蔵助以下四十七士が最低の武士の成敗・喧嘩両成敗さへ認められなかったことに対する幕府への抗議!これは江戸幕府の刃傷事件にたいする始末に逆らった上、『府内で徒党を組んではならない』という江戸府内の治安の掟をも破る違法行為でした。それでも庶民はもちろん誰しもが心情として義挙と思う行為だったのです。それで現代にいたるまで赤穂義士のお話は芝居になり小説になり、私達日本人の心とともにあります。時の江戸幕府は当然その処置に大変困りました。そして熟考の末出した裁きは『武士の礼をもって切腹』というものでした。内蔵助以下四十七士は当然とそれを受け入れ主君の後を追いました。

いかなる法でも法は法、施行されて効力を持っている法に従うのが法治国家の国民の義務です。これを思うと遠い昔のソクラテスを思います。ソクラテスは、確か国家の敵(?)とみなされて、毒杯か国外追放かの二者択一をせまられ、毒杯を選択しました。ソクラテスは市民権を持つ以外は奴隷という都市国家に生きましたから、現代の私達の観念とはかなり違います。多分ソクラテスにしてみれば毒杯と国外追放に大して開きはなかったと思います。いずれにしろ国法を遵守しました。そして私達の江戸時代にはかの悪名を現代に届かせている時の老中(でしたっけ?)柳沢吉保も落ち着くべき処罰をしました。そして幕府という法体制の体面は保たれ、赤穂義士の面目は義挙として後世に名を残すことになりました。

それに引き換え我が国の現状は法治国家も砂漠状態です。今回の海上保安官の公務員法違反はどうなるのでしょうか。『禍福はあざなえる縄のごとし』です。この処罰を誤ったら、ここから様々なひろがりを生んで目立ってくる物は悪しき慣例となるでしょう。時代の大老の役目を果たす者は誰でしょうか。この事を考えていたら、私が大学四年の秋の三島事件を思い出しました。市ヶ谷の駐屯地は私の通学と一緒に父が通勤した勤務地でした。毎朝中央線新宿で父と別れ私は山手線に乗り換えたものです。当時お隣にはアジア経済研究所があり、私は就職の面接試験を受けた思い出(その面接試験で落第しました)があります。そんな市ヶ谷で起きた衝撃の事件!あの日の夕方弟は異常な様子で帰宅しました。父は言いました。「○○は三島由紀夫が好きだから・・・・・」あの場面をよく思い出します。

なぜ三島由紀夫氏は切腹まで、それも確実に遂行すべく介錯まで用意してあの日の事件(?)を決行したのか、私はやっと心情的に納得しました。やっと戦後の父の人生のもどかしさを得心しました。裁く法が無かったのです。『自分がいかなる法で裁かれるのか・・・・・』と三島由紀夫氏は自分の『義挙』の行く末に暗然としたはずです。あの事件が世間に警鐘を与える目的であったにしても、あの自死はそうではなかったと確信します。あの自死は義挙が義挙たる生命を持ち続けるように、三島由紀夫氏本人が自分に与えた法の裁きだったのだと思います。あれから40年、依然として私達はその法を持ちません。さらに膠着した法と権力(行政府)を持っているだけです。私達は未来をいかなる形で迎えようとしているのでしょうか。



それでは今日も:

    私達はまだ横田めぐみさん達を取り返していない!
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