「渡辺津(わたなべのつ)」。この言葉を知っている方は、なかなかの大阪通と言えるのでなかろうか。
以前、大阪で地域の仕事をしていたころ耳にした言葉である。とくに私の名字が「渡辺」だからなおのこと関心をもった。
この「渡辺津」は、平安時代以前に遡るが、摂津国の旧淀川河口近くに存在した、瀬戸内海沿岸で最大級の港湾のことである。現在大阪市の中心部、旧淀川にかかる天満橋から天神橋の間くらいに位置するところである。
その当時、「渡辺津」を中心にした地域が人や物の流通が盛んだったようだ。瀬戸内海を通り四国や九州へ、また渡辺津に上陸し堺や和歌山へ、そして熊野古道などへの流通の起点になっていた。その起点になった「渡辺津」の場所を示す記念石が、いまの天満橋の八軒家浜船着場から西に100mあたりに立っている。
当時栄えた「渡辺津」の地域に「坐摩(いかすり)神社」(通称:ざまじんじゃ)があった。「渡辺津」から200m南(中央区石町)にあった。現在は坐摩神社行宮の境外末社として鎮座されている。1958年に豊臣秀吉が、大阪城築城に際し、城域にあたるため、現在地の大阪市中央区久太郎町4丁目(南御堂西側)に遷座されたと記されていた。
お正月休み最後の5日、大阪に出かけた際に、以前から心に留めていた「渡辺津」、そしてその地域の守護神「坐摩神社」に参拝したいと立寄り、天満橋から本町までゆるりと散策してみた。
この「渡辺津」が、いま渡辺姓を名乗る方々のルーツの一つなっている。確かに、小生の実家の墓石にも渡辺紋様と同じ形のものが家紋として彫ってある。
長い間、大阪を仕事場にしていた小生(渡辺)としては、「渡辺津」を訪ねることで長い間の心につかえていたものが解かれた気分になった。
現在の「坐摩神社」の住所は、大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号 宮司さんも渡邉さん
八軒家浜船着場から臨む「天神橋」
八軒家浜船着場から臨む「天満橋」
むかしの船着場
渡辺津の祈念石
中央区石町の坐摩神社(現在は坐摩神社の境外末社)
久太郎町の現在の坐摩神社
住所は中央区久太郎町4丁目渡辺3号
以前、大阪で地域の仕事をしていたころ耳にした言葉である。とくに私の名字が「渡辺」だからなおのこと関心をもった。
この「渡辺津」は、平安時代以前に遡るが、摂津国の旧淀川河口近くに存在した、瀬戸内海沿岸で最大級の港湾のことである。現在大阪市の中心部、旧淀川にかかる天満橋から天神橋の間くらいに位置するところである。
その当時、「渡辺津」を中心にした地域が人や物の流通が盛んだったようだ。瀬戸内海を通り四国や九州へ、また渡辺津に上陸し堺や和歌山へ、そして熊野古道などへの流通の起点になっていた。その起点になった「渡辺津」の場所を示す記念石が、いまの天満橋の八軒家浜船着場から西に100mあたりに立っている。
当時栄えた「渡辺津」の地域に「坐摩(いかすり)神社」(通称:ざまじんじゃ)があった。「渡辺津」から200m南(中央区石町)にあった。現在は坐摩神社行宮の境外末社として鎮座されている。1958年に豊臣秀吉が、大阪城築城に際し、城域にあたるため、現在地の大阪市中央区久太郎町4丁目(南御堂西側)に遷座されたと記されていた。
お正月休み最後の5日、大阪に出かけた際に、以前から心に留めていた「渡辺津」、そしてその地域の守護神「坐摩神社」に参拝したいと立寄り、天満橋から本町までゆるりと散策してみた。
この「渡辺津」が、いま渡辺姓を名乗る方々のルーツの一つなっている。確かに、小生の実家の墓石にも渡辺紋様と同じ形のものが家紋として彫ってある。
長い間、大阪を仕事場にしていた小生(渡辺)としては、「渡辺津」を訪ねることで長い間の心につかえていたものが解かれた気分になった。
現在の「坐摩神社」の住所は、大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号 宮司さんも渡邉さん
八軒家浜船着場から臨む「天神橋」
八軒家浜船着場から臨む「天満橋」
むかしの船着場
渡辺津の祈念石
中央区石町の坐摩神社(現在は坐摩神社の境外末社)
久太郎町の現在の坐摩神社
住所は中央区久太郎町4丁目渡辺3号