ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)

日本の伝統文化の情報を国内外に配信していくための団体です。 その活動を通じ世界の人々と繋がっていく為の広報サービスです。

建仁寺の降誕会四頭茶礼のために咲いた桜の景色

2021-04-23 14:49:11 | 文化想造塾「神社仏閣」

先日、京都建仁寺を訪ねた際に、受付正面に大きな桜の木の飾りつけが行われていた。

木には桜が咲きこれから満開を迎えるベストな状態のものだった。

関西では、この時期すでに過ぎ桜を見かけることはないが、

北の方から運ばれてきた貴重な花材だろうと想像はつく。

その作業に見とれながら、近くにおられた僧侶に “この飾り付けは何のためですか”と尋ねると、

「明日の降誕会(ごうたんえ)の法会ために」という答えが返ってきた。                 

門外漢にはよくわからないので調べてみると、

毎年、建仁寺宗祖である栄西禅師の降誕会(誕生日)四頭茶会(よつがしらちゃかい)

という法会が執り行われている。その茶会が、今年はコロナの感染拡大を考慮し中止になったようだ。

内輪のみで降誕会法要のみを行うにあたり、茶会用に準備されていたこの桜を飾ることに。

その作業中であった。活け花の先生らしき方と、

桜の木を準備された方との二人三脚での作品づくりをしばし眺めていた。

 

ちなみに降誕会四頭茶会というものがいかなるものであるかを少しまとめてみた。   

茶会というよりは寺院に伝わる儀礼なので茶礼といういい方が適切のようだ。        

建仁寺四頭茶礼とは、起源は中国の南宋・元の時代、大きな寺院にて行われていた茶礼で、

日本には鎌倉時代に栄西禅師が禅と共に伝えられたとされている。

室町・桃山時代以降、盛んに用いられた作法のようだ。

当時は、特別な招待客のためのお茶であるから特為茶といわれ、

一般大衆に呈茶する普茶とは趣がちがうもの。

天目台、天目茶碗を使用し、出席者を貴人扱いとして行われていた。

この作法は、禅宗寺院内の修道行事・法式・作法等を規定した正規のもののようである。

平成24年に京都市登録無形民俗文化財に認定され、いまも毎年行われている法要である。

そしてもう一つ理解ができてない四頭茶会というものは、禅院茶礼の伝統を今日に伝えるもので、

四頭は四主頭(ししゅちょう)、つまり正客が4人存在し、

主位、賓位、正対位、賓対位で対坐する禅院斎宴の着席法で行われるものである。

(建仁寺ネット資料から転載補足)

 

寺院の法要、法会などの詳細は、われわれにはなかなか理解しがたいところはあるが、

昔の慣習や風習、儀礼、作法等々、時代は変われど大切に伝承されている。

日本の歴史文化の中でも、日本独特の精神文化は深いものがあるようだ。

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善峯寺をゆるりと回った。貴重な光景を楽しむ

2021-04-22 15:15:16 | 文化想造塾「神社仏閣」

山の中腹に位置する善峯寺は3万坪の境内を有し、

諸堂を回るのに約30分から40分かかる回遊式境内になっている。

諸堂を巡りながら、眺望と四季折々の花や樹木の彩りを楽しめる寺院である。

受付でもらった境内の地図を見ながら回ってみた。

山門をくぐり、正面の本堂(観音堂)には本尊である千手観音像(秘仏)が安置されている。

本堂を右に行くと前回紹介した遊龍の松が迎えてくれる。

右に護摩堂を眺めながら進むと多宝塔、経堂があり、

さらに進むと伝教大師筆の法華経が納められている宝篋印塔、

そして善峯寺復興の大檀那である桂昌院廟がある。

その横には源算上人の尊像が祀られている開山堂と鎮守社がある。

その後方の斜面には春はしだれ桜、夏は紫陽花が一帯を彩る。

その斜面の上には幸福地蔵が安置されている

。さらに上っていくと、源算上人の作といわれている釈迦如来が鎮座。

そして少し進むと比叡の山々、京の市街地が一望できるところに薬師堂が建つ。

ここには桂昌院出生の由緒により出生薬師如来像が納められている。

御陵、稲荷社を経て、最終奥の院には阿弥陀堂がある。

こんな順路で歩いてみた。

春の陽射しを受けながら、山の中腹に点在する堂宇を想うがままに見て回ると心も体も清められるような気がする。

貴重な時間を過ごさせていただいた。

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日本一の松、善峯寺の「遊龍の松」

2021-04-21 14:33:21 | 文化想造塾「神社仏閣」

先日訪ねた京都西山の善峯寺には日本一の松といわれている「遊龍の松(天然記念物)」がある。

山門をくぐり正面の本堂(観音堂)を右に行ったところに中心核になる幹があり、

多宝塔と経堂の前を左右に広がかっている。高さはわずか2~3mだが、

地を這うように分かれた幹が左右に約40m伸びている。

その長く伸びた幹が遊んでいる龍に見えることから「遊龍」と称されるようになったようだ。

松は龍に喩えられ、仏法を守る守護神として、また水の神様としても寺院には多く植えられてある。

黒松をはじめ赤松や五葉松をよく見かけるが、ここ善峯寺の松は五葉松である。

樹齢600年の大樹で、善峯寺の諸堂宇を守り続けている。

 

ちなみに、京都の三大松といわれるが、この「遊龍の松」と金閣寺の「陸舟の松」、宝泉院の「五葉の松」。

機会があれば足をお運びください。

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滋賀・近江の町を通して、商いの源流を知る

2021-04-20 14:54:34 | 地域発展

小雨の降る中、滋賀県の湖東になる東近江市と近江八幡市を訪れた。

最近、滋賀に縁があり、行く機会が増えている。

滋賀は、京都、奈良の伝統の美しさ、深さとは少し違う美しさや素朴さが育まれているような気がする。

それが町や村、そして風習、慣習、商い、人、自然などを通し身近に感じる土地柄のように思える。

その中でも「商い」は特筆するところがある。周知のとおり、滋賀・近江は有数な商人を輩出した地である。

そして、近江商人が築いた、日本を代表する企業が多いことでも有名である。

近江商人は、地元を活動の場とするのではなく、「行商」から始まり、

他府県に商いの活動拠点を形成していった。

その活動の拠点となったのが、当時の江戸・日本橋周辺、上方・本町周辺、京都などが

近江商人の活動の拠点として広がったようである。

その近江商人の根底に流れている商いの基本理念が「三方よし」。

この理念は、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」というシンボル的標語として用いられている。

大手総合商社の伊藤忠商事は、近江商人であった創業者である伊藤忠兵衛がその礎を築いた。

昨年(2020年4月1日)から経営理念を「豊かさを担う責任」(1992年に制定)から

近江商人の根底に流れる原点「三方よし」に改めた。

三方よしは、売り手よし、買い手よしは、双方とも満足する取引をして"よし"とし、そして、

もう一つの「世間よし」は、利益は世間のため、広く公共のために活用されるものだとしている。

この理念が近江商人の根底に流れているから、

地縁も血縁もない遠く離れたところで得意先を開拓していけたわけである。

 

日本の歴史、伝統文化の土台になり文化を形成していくうえで

欠かせない大きな要素一つになったのが「商人」である。それを紐解くのに外せないのが「近江商人」。

今回は、町を通して商売の源流をほんの少し知ることができた。

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貴重な代物「浪華の魁」。当時の店風景がリアルに伝わる

2021-04-18 16:23:41 | 歴史文化

「浪華の魁(さきがけ)」、と言われてもピンとこない。

現物を見せられてもよう分からない代物だ。

タテ8㎝、ヨコ15㎝、そして厚みが3㎝ほどの冊子である。

表紙は色厚紙がめくれボロボロ状態だが、中身はきれいに保存されている。

奥付に、発行日が明治15年1月19日とあった。

挿絵付の店頭風景が充実した大阪の業種別商人名鑑である。

この時代は、まだ内閣制度の前の太政官制の時代で議会政治が始まろうというとき。

大坂(阪)では東区を中心とした商いの町「船場」が活発に賑わっていたころである。

そのとき繁盛していた商店の名簿である。これに掲載されている商店は、

当時、数多くある商店の中のパイオニア的存在として一斉を風靡していたようである。

 

貴重な物を見ることができた。驚いたことは、当時から多種多様な商店の数が実に多いことにびっくり。

その中でも、武田薬品工業、小野薬品、コニシボンドなどの薬品問屋さん、

そして飲食分野では花外楼、駿河屋、鶴屋八幡、渋谷利兵衛商店などが挿絵で掲載されている。

この絵を見ると当時の商売の雰囲気がリアルに伝わってくる。

写真にあるいくつかの商店は、いまも健在で一部上場企業として、

また老舗店として現在でも隆盛を極める企業として存在している。

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