それは入学式から何日目だったでしょうか、
まだクラスの後ろの壁に名簿が飾ってあった時期の事です。
私の名前は難しい読み方なので、生まれてこの方、初対面で読めた人がいませんでした。
それで、今回もこの名前が読めないという事で、散々な目に遭ってしまいました。
所謂苛めの代表格のような物、ばい菌扱いされてしまいました。
私はその内収まるだろうと高を括っていたのですが、どちらかというと収まるより段々酷くなって行ったのです。
今までの小学校では誰もこんな事はなかったので、行き成りの苛めにはびっくり
するというより、
全く慣れていなかった現象に戸惑ってしまい、あれよあれよ
と傍観(自分の事なのに
)する内に拡大して行ったのでした。
元々のんびりしていた私の事、気にしなければその内収まるだろうと思っていましたが、
1学期も終わる頃には、段々と向こうから来た小学校の男子が苛めグループと化して、
皆で攻めて来るといった感じになっていました。
これには、如何にのんびりとして押取りした私でも青ざめてしまいました。
こんな中、暗い気分でも学校を休まずに通えたのは学問が好きだったからでした。
休むと勉強が遅れる、分からなくなってしまう、塾にも行っていなければ参考書も無い、
学校の勉強だけで来ていた私には、授業を休むという考えが全く浮かびませんでした。
また、這う這うの体でも中学に通えたのは、女子の方は全く苛めに参加していなかったという理由がありました。
女子からは全然嫌がられているそぶりが無かったのでした。
これでクラス全体から苛められていたら、やっぱり登校拒否になっていた事でしょう。
所謂針の筵というほどの酷い状態でしたからね。
こんな絵に描いたような苛めも、一時引きかけた頃がありました。
中間試験の頃です。そんなに成績が悪くなかった事と、苛めに遭っても動じない態度でいたのが良かったのでしょう。
のほほんとしていたので、男子が静かになり始めていたのですが
、如何いう訳かまた苛めの波が復活し、
前より酷くなる様相でした。
そんな中で期末試験を乗り切り、やっと夏休みへと辿り着いたのでした。
しかし、夏休みに入って2、3日した頃、私は遂に思いを吐き出すように父に言いました。
「私転向しようかな、転向したいんだけど。」
ポツンとした言い方でしたが、
父は如何してかとすぐに相談に乗ってくれました。