物の10分も経っただろうか、初子の家の近所のおじさんが玄関口で声をかけた。
「今晩は、誰かおられませんか?」
はいと言って初子が玄関に立って行くと、見慣れた近所のおじさんである。
彼女はにこやかに微笑んで、何でしょうか?と応対する。
彼の方は、おずおずとした感じで、何だか抑えたような素振りで下から彼女の顔を見上げるような、
言葉を発することが出来ないのかやや口ごもった感じで、彼女の顔を窺う様な眼差しであった。
彼女が何時もの様に何でしょうかと再び聞くと、
近所のおじさんは、もうかなり彼女より年上で、彼の子供はもう中学に上がろうというような年代であったが、
妙に青年然としたような顔付になると、
「お父さん、何かあったかね?」
と彼女に尋ねる。
父が?特に何もと彼女が訝りながらにこやかに彼に返事を返すと、
娘さんの方は大丈夫だねぇ。などと言う。
彼女が怪訝に思っていると、彼はやはり身をかがめたような感じで、
もごもごと口の中の言葉を言い出せないでいる。
父が如何かしたんでしょうか?
何だか心配になって、笑顔を引っ込めて真顔になり彼に問いかけてみる彼女だった。
それでも彼はやはり妙に寡黙で、やや屈み込んだ様な姿勢のままいやいやをするように体を左右に振っていたが、
お家の奥から、如何したのという初子の母の声が聞こえてくると、
さっと意を決したように初子の顔を見ると、
「お父さん、変だから。」
変だから、医者に見せた方がいいよ。とだけ小声で手早く言うと、
そそくさと玄関の戸口から外へと出て行ってしまった。戸を閉めるのも忘れたらしい。
夜間の事で引かれていた戸口のカーテンが、彼が消えた場所で揺れている。
「那須さん何だって?」
最初の声が奥に届いたのだろう、誰が来たのかを察した母が彼女に聞いた。
さぁ、と初子。
何でも、お父さんがおかしいから、お医者様に見せた方がいいって。と初子。
当然母はえっと驚く。
初子は母にそう言って、外にいるかもしれない父の様子を見ようかと、
玄関の戸もそのままだからと玄関口に降りた。
母はお前何処かへ行くのかと初子に聞くので、彼女は、
那須さんが戸を閉めて行かなかったみたい、カーテンが揺れているから戸を閉めに行くのよ。
外の様子も気になるから覗いてみるわと答えた。
母はお母さんが閉めに行くからお前は家に入りなさい、と玄関口に降り立つ。
彼女と母が入れ替わって、初子が見守る中、母は入口の方へと進んで行った。
そして彼女は戸口の前で止まらずにそのまま表に出て行くと戸を閉めた。
家の中に1人残った初子は、お母さんお父さんの様子を見に外へ出たのねと了解した。
母はやはり父の事が心配なのだ。
それでは私は家で留守番した方がいいなと彼女は判断する。
一体父は如何したというのだろう?さっき迄は何ともない様子だったのに、
彼女はほんの10分ほど前の父の様子を思い浮かべてみる。
『全然変じゃなかったけどな。』