ははははは。
わーぁははははは。
部屋いっぱいに響き渡る父の声に、台所から居間へと向かう初子は父の機嫌が相当上々なのを知る。
今までいた台所でも父の笑い声は聞こえていたので、余程面白い事でもあったのだろうと思いながら彼女は聞いていた。
さて、台所の用を済ませて彼女が居間に来てみると、父は座布団に座り込み、まだ時折上を向いて高笑いしていた。
電話かしらと電話を見ると、受話器は掛かったままである。
確かに、父は電話に出るには遠い位置にいた。
では、テレビで面白い番組をやっているのだろうと、彼女は興味を惹かれてテレビを覗き込もうとする。
おやっ?
テレビの画面が見える位置まで来たが、テレビの画面は暗いままである。
テレビは点いてい無かったのだ。
ここで初めて初子は父の様子がおかしいと感じるのだった。
わぁははははは。ははははは。
また父が、顔を天井に向けて部屋一杯に響き渡るような、空にまで向かって声を轟かせるような高笑いを上げた。
こんな父の笑い方など今まで彼女は見た事が無かったので、一瞬奇妙な感じが彼女を襲った。
それは恐怖にも似た感情だった。奇妙で異質なものを見ると人が抱く恐怖心のような物だろう。
まさか父が、
と思い彼女は父の顔つきや様子等、具に観察した。
すると父を凝視する彼女の目の前で、また父が口を大きく開けると顎を上げ、
天井に向かって空にまで届けとばかりに高らかな笑い声を上げる。
まるで腹の底から「は」の音を虚空にでも吐き出しているような声の出し方だった。
顔も明るく清々しそうだ。
彼女が見ていると気が付いた父は、
「医者がこうしろと言うんだ。」
と言うので、彼女はそうだと、2日前の晩の那須さんの言葉を思い出した。
お父さん変だから、医者に見せた方がいいよ。
「お父さん、具合が悪いんなら医者に行って診てもらって来たら。」
と言葉がつい彼女の口から出たものの、
父が医者が言うと言ったのだから、父はもう医者には行って来たのかと思い当たる。
行って来たの?それでそうしろと言われたの。彼女はそう聞いてみる。
そして同時に父は真面らしいとややほっとした。
父はそうだと答え、抑えるから変になるんだ、
思いっきり外に発散しなさいという事だったと言った。
彼女はもう1度落ち着いて父の様子を観察してみた。
父はかなり明るい表情で、身も心も天に昇って行きそうな、ぐわっと湧き立つような気配を身にまとっていた。
父のこの歓喜の様相に、彼女は嬉しそうだねお父さんと言ってみた。
父は娘の言葉に如何にもそうだというような明るい笑顔で答えると、
「おお、盆と正月だ、盆と正月が一遍に来たんだ。」
と言う。
なるほど、これは父にとって相当良い事があったのだと彼女は悟った。
良かったね、盆と正月が一緒に来たのなら、8月と1月、夏冬2つ合わさって、丁度春、
春爛漫なんだねお父さん。
と、おめでとうと彼女が言うと、父はお前うまい事を言うなぁと益々上機嫌である。
そこで初子は、お母さんはと言って、母はどこへ行ったのだろうと探し始めた。
お母さんなら外へ行ったと父は言い、また引き続き、
ははははは
と、高笑いを始めた。父を居間に残すと彼女は玄関に出た。
ガラス戸越しに外で動いている母が見えた。
彼女が外へ出て行くと、母の方は家の前で2、3歩進んでは戻るというように、
行きつ戻りつしている。
「お母さん、如何したの?」
今度は母に聞いてみる。
ああ、と母は彼女の顔を見ながら、お父さん変でねと気落ちした風情である。
お父さんが?全然変じゃないと思うけどと、彼女が言うと、
母はそうと少々気を引き立たせた風だった。
お医者様にも行って来たみたいだし、ああしろと病院で言われたんでしょう?
お母さんも一緒に行ったんじゃないの?
初子のこの問いに、母はそうだと答え、那須さんや近所の人が、
あんたも一緒に行って、医者に診てもらって来た方がいいよって言うから、行って来たんだけど、
医者の話では…と、母は言葉を濁した。
この状態が今より悪くなる様なら、治らないかもしれないから気を付けなさいって。
えー、と初子。
大丈夫なんじゃないの、お父さんとても元気で明るかったもの。
少々無理して彼女は微笑んだ。
お医者様で、ああやって声を出して気持ちを発散させなさいって言われたんでしょう。
もう効果があったらしくて上機嫌じゃないのお父さん、盆と正月だなんて言ってたし、
相当嬉しい事があったのね。良かったね。
彼女がにこにこして母に父の事を取り成すと、母も少し落ち着いたのか微笑んだ。
そして、元々お前のせいでああなったんだけど…などとぼそぼそ言い始めるのだった。
機嫌がいいのはいいんだけど、良過ぎるのは変だという話だし。
母にこう言われても初子には何の事か分からない。
初子が母の言葉に解せない素振りを見せ始めたので、
母の方は父の様子が気になったのか、これ以上彼女に何でも構うのが面倒になったのか、
ついと家に入ると奥へと姿を消してしまった。
外に1人残った初子は、父の様子と同じように明るく高く晴れ渡った青い空に、
『天高く馬肥ゆる秋』など連想する。
彼女は綺麗な秋空に誘われてか、家に入りたくなかったのか、そのまま散歩に出掛けてしまった。