「あなた、新婚旅行で会った外国の人に、飽きたらやるから隠れて見ていればいいさ、
って言ったんですって。」
その日帰宅した竹雄に、薫子は落ち付きながらも、ややきつめの声で真偽を問うのだった。
夫の方は薄い笑いを浮かべていたが、如何とも、否定も肯定もしなかった。
「如何なんです。」
更に彼女が問いただすと、彼は、
「人を好きになる気持ちが分からないの?」
僕には分るな、と言ったものだ。
それでは私は朴念仁だとでも言いたいのか、と薫子は思った。
自分の妻の傍に、妻に恋する男性を寄せて置くなんて、決して良い結果にはならない、
私ならそう思うと彼女は内心思った。
一体どういう人物なのだろう、竹雄という人物について、彼女はそれまで大目に見てきた彼への配慮を、
全く改めた方がよいと悟るのだった。
堅実で実直、節約家で質実剛健、夏に麦わら帽子1個で過ごす彼女にとって、
お洒落な帽子を買わなかったのかと言った夫。
彼にすると化粧っ気も無い気取らない彼女は、面白みのない女性だったのかもしれない。
贅沢にしていいと言っても、店で安価な物しか購入してこない彼女に、小馬鹿な目だけを向けていたのかも知れなかった。
家族の健康や家の貯蓄、堅実な将来設計を描く彼女に、堅苦しい思いだけを募らせていたのかもしれない竹雄。
彼女は本の4ヶ月程度の結婚生活だったが、自分の結婚が最初から破綻していた事に改めて思い至ると、
今更のように後悔の念を抱くのだった。
幼い頃に祖母に買ってもらった麦わら帽子に、素朴で質素なその容姿ではあるけれど、
自然で穏やかな影の効用を嬉しく感じ取った薫子。
灼熱の夏の日差しから、涼やかな陰で自分の身を守ってくれるありがたい連れ合い。
そんな麦わら帽子が気に入っていた彼女。
夫にはその良さが分からないのだ、素朴な麦わら帽子なのに。
彼女は次の日、今年の夏の始めに買った麦わら帽子を手に、山の端に登った。
足下の眼下は崖、その遥か下には静かに波が寄せては返していた。
夏の海は深い群青色で妥協を許さぬ濃さに染まっていた。
彼女が手にした麦わら帽子には、長い飾りリボンが付いていた。
彼女がこの帽子を選んだのは、このリボンの柄と色合い、風に靡く様が気に入ったからだった。
普段なら売れ残りの安物しか買わない彼女、今年は夫の資産で好きに買う事が出来た。
だから、麦わら帽子と雖も、何時もより高価な値で買った麦わら帽子だった。
そのせいか鍔が広く、何時もなら襟足迄しか無いひさしが、肩を覆うくらい迄に広々とあった。
その分影も大きく出来る。今夏の激しい日差しから、存分に彼女の体を守ってくれた。
彼女はこの今年の麦わら帽子が、今まで彼女が選んだ帽子の中で1番気に入っていた。
しかし、この帽子は自分のお金で買ったものでは無かった。
夫の収入で買ったものだと思うと、今までの常の外出のお伴という愛着が、すっかり嫌悪に変わった。
彼女は崖の上から海を見下ろすと、手に持っていた麦わら帽子を水平に吹いてくる風に載せて下へと投げやった。
海から吹いてくる風に煽られながら、帽子はくるくると舞い上がり、
一旦地上に戻りそうになりながら、それでもくるくると下へと降りて行った。
終り