神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

黒又山

2016-11-12 23:56:22 | 伝説の地
黒又山(くろまたやま)。
場所:秋田県鹿角市十和田大湯字宮ノ平82(本宮神社の住所)。「大湯ストーンサークル館」前から秋田県道66号線(十二所花輪大湯線)を北東へ約1.2km、「佐藤酒店」の角を右折(南東へ)、約300m進んだところで左折(北東へ)、約150m。駐車場なし。
「黒又山」は、「大湯環状列石」(前項)の北東、約2km(直線距離)のところにある標高280mの山。姿がきれいな三角形に見えることから、人工の山、「ピラミッド」ではないかともいわれている。地元では「クロマンタ」とも呼ばれており、アイヌ語で「神の山」という意味だという説もある。また、階段状の石組構造があるとか、山頂部の地下に空洞があるとか、山頂部にはかつて石造の神殿があって現在もその破片である石が散らばっているとか・・・という「調査結果」もあるらしいが・・・。まあ、人工の「ピラミッド」説はともかく、「大湯環状列石」にすぐ近く、その太陽信仰の祭祀において、「黒又山」も関連していたということはかなり有力説らしい。
因みに、山頂には「本宮神社」が鎮座しており、社伝によれば、万治2年(1659年)、中通四ヵ村一同が大己貴命を祭神とする神社を建立したとされる。また、別伝では、平安時代中期の武将・安倍貞任の一門である本宮徳次郎が、薬師堂を建立したのが創祀とされる。本宮神社と呼ばれるようになったのは明治以降で、いったん旧・大湯町の「神明社」に合併されたが、昭和27年に分祀、独立したとのこと。


秋田県神社庁のHPから(本宮神社)


写真1:「黒又山」。確かに、きれいなピラミッド形。


写真2:「本宮神社」鳥居。ここが「黒又山」の登り口。


写真3:山頂の「本宮神社」社殿。


写真4:社殿前のズームアップ。散らばっている石が石像神殿の破片?

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八郎太郎誕生之地(三湖物語 ・その1)

2016-10-29 23:42:08 | 伝説の地
八郎太郎誕生之地(はちろうたろうたんじょうのち)。
場所:秋田県鹿角市十和田草木保田。「草木小学校」南側の道路を約200m進み、右折(東南へ)、約350m。駐車場なし。
現・秋田県を中心に、十和田湖、八郎潟、田沢湖の3つの湖にまつわる伝説として「三湖物語」(「三湖伝説」)と呼ばれるものがある。3つの湖の龍神伝説が主であり、まずは十和田湖からなのだが、その前編。
現・鹿角市域は秋田県に属しているが、江戸時代には現・岩手県盛岡市を中心とする南部藩に属していた。当地には「南部ダンブリ長者」の伝説がある。大日神のお告げにより、婿を探す娘がダンブリ(トンボ)の導きで若者と出会い、酒が湧く霊泉を見つけて長者(大金持ち)になるという物語である。そして、その長者の娘・吉祥姫が継体天皇の側女となったことから、長者夫婦の死後、継体天皇の勅許を受けて、現・鹿角市の小豆沢と長牛、現・秋田県大館市比内町の独鈷にそれぞれ大日堂を建立したとされる(継体天皇17年:523年)。また、これら大日堂3社には、神亀2年(725年)に行基が訪れ、自刻の仏像を安置したという。このうち、現・大館市比内町独鈷の「大日堂」は、江戸時代までは神仏混淆の状態であったが、明治時代に入り「神明社」となり、平成元年に「大日神社」に改称した(現在の祭神:大日霊貴命ほか)という。
さて、昔、この比内町独鈷の「大日堂」に了観という僧侶が住んでいたが、戒律を破ったため大蛇の祟りを受け、現・鹿角市十和田草木に移り住むことになり、子孫は九内と名を変えた。九代目の九内は八郎太郎と名乗り、6尺余り(=180cm余)という大男で、力も強かったが親孝行な若者であった。ある日、仲間と3人連れで十和田の山奥に入った。数日後、八郎太郎が炊事当番であったとき、沢で大きなイワナを3匹捕まえた。これを焼いていると、あまりに美味しそうだったので、平等に分け合うという掟を破り、イワナを全部食べてしまった。すると、異常に喉が渇き、沢の水を飲み続けているうち、自分が竜に変身していることに気が付いた。こうして、八郎太郎は仲間に別れを告げ、沢を堰き止めて大きな湖を造ると、その主となった。この湖が「十和田湖」である、というのが、「三湖物語」の始まりとなる。


秋田県神社庁のHPから(大日神社)


写真1:「八郎太郎誕生之地」石碑


写真2:「桂の井戸」(場所:写真1の石碑から南東へ約120m。駐車場なし。)


写真3:「大日神社」参道の石段と社号標。「神明社」の社号標も残っている。(場所:秋田県大館市比内町独鈷字大日堂前8)


写真4:同上、社殿前の神明鳥居


写真5:同上、社殿。付け足しのような本殿もあるが、如何にも仏堂の趣き。
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姫塚(秋田県仙北市)

2016-10-15 23:29:15 | 伝説の地
姫塚(ひめつか)。
場所:秋田県仙北市田沢湖生保内字堂ノ前。現・国道341号線と旧・国道341号線が交わるところにあるコンビニ「ローソン田沢湖造堂店」から旧・国道341号線を南に約500m。駐車場とトイレがある。
「姫塚」は、平将門の娘である瀧夜叉姫の墓とされる塚で、今も当地に多い田口姓は姫の子孫であり、姫は「村祖」とされている。「姫塚」から南に約1.4kmのところにある「中生保内神社」は、社伝によれば、御神体は瀧夜叉姫の守護神として懐中していたという延命地蔵像で、姫の長子・田口九郎右衛門(田口九兵衛とも)が氏神として祀ったという。元々は田口家の屋敷内(字堂ノ前)にあったが、東側の地蔵長根というところに移したところ、通行人が度々落馬することがあり、元の社地に戻したという。明治期に入り火産巣毘神(ホムスビ)を祭神として「愛宕神社」に改称、明治44年に「山神社」(大山祇神社)と合社して昭和3年に現在名に改称したとされる。民話では、昔、苗代掻きで人手不足に困っていると、ホエドワラシ(乞食童子)がサセトリ(馬の鼻をとって引き回すこと)をしてくれた。いつの間にか居なくなったので捜すと、地蔵堂に泥の足跡がついていて、地蔵像の足が泥で汚れていた。お地蔵様が童子となって手伝ってくれたことがわかった。以来、この付近の田を地蔵田といっている。また、地蔵の足に蛭が吸いついて血を吸ったが、罰として血を吸ってはならないことにされ、地蔵田の蛭は血を吸わないという話である。実は、類似の民話は各地に各地にあり、一般に「田掻き地蔵」といわれている。
ところで、平将門の娘は3人いたとされており、長女が五月姫、次女が春姫、三女が如蔵尼(俗名不明)となっている。このうち、長女の五月姫が、将門の死後、京都の「貴船神社」で妖術を授けられて瀧夜叉姫と名乗り、朝廷転覆の反乱を起こしたとされる。瀧夜叉姫は、京都「大宅神社」神主・大宅太郎光圀の陰陽術によって成敗された、というが、これは後世に作られた物語に過ぎないらしい。一方、瀧夜叉姫とは、三女の如蔵尼であるとする説もある。如蔵尼(瀧夜叉姫)は、将門の死後、東北地方に逃れて仏門に入り、地蔵菩薩を信仰して如蔵尼と名乗ったという。その隠棲した寺が陸奥国「慧日寺」(現・福島県会津磐梯町「恵日寺」)で、境内に墓碑があるとのこと。如蔵尼は、「國王神社」(現・茨城県坂東市、2012年10月6日記事参照)を創建した人物とも伝えられており、「瀧夜叉姫」(「夜叉」は元々インド神話の鬼神)という名とはイメージが異なる。
こうしたことから、東北地方では、将門の三女の名が元々「瀧夜叉姫」であったのであり、将門の死後、地蔵菩薩を篤く信仰して、その功徳を説くあまり、妖術を使って民を惑わすとして、朝廷から睨まれていた。それで、ついには現・秋田県仙北市田沢湖まで落ち延びてきた、との伝承が生まれたようだ。上記の「田掻き地蔵」の伝説があるように、この伝承・伝説には地蔵菩薩を信仰し、布教活動をしていた旅僧(団)の存在があったのではなかろうか。
蛇足ながら、将門の次女・春姫であるが、平良文の子・平忠頼の正室となり、平忠常らを生んだ。平忠常は後の千葉氏の祖であり、関東地方で多くの同族があって栄えたとされる(平良文については、「千葉神社」(2012年5月5日記事)、「夕顔観音塚」(2014年5月10日記事)等参照)。


「まるまる秋田」のHPから(姫塚)

秋田県神社庁のHPから(中生保内神社)


写真1:「姫塚」の石碑。江戸時代に建てられたものらしい。「姫者平将門三女也」と刻まれている。


写真2:「姫塚」


写真3:「中生保内神社(なかおぼないじんじゃ)」(場所:仙北市田沢湖生保内字中生保内1。「姫塚」から南に約1.4km、駐車場なし)


写真4:同上、社殿
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万箇将軍の墓(紫雲山 瑞光寺)

2016-08-20 23:44:24 | 伝説の地
万箇将軍の墓(まんこしょうぐんのはか)。
場所:秋田県由利本荘市町村字木戸口54(「紫雲山 瑞光寺」の住所)。国道108号線(矢島街道)から秋田県道287号線(南由利原鮎川線、広域農道と重複)に入り、西~南西へ約2.5km。駐車場あり。
曹洞宗「紫雲山 瑞光寺」の創建時期は不明。伝承によれば、大同年間(806~809年)に弘法大師、嘉祥年間(848~851年)に慈覚大師が訪れたという古刹で、中世には「由利三ヵ寺」の1つに数えられた。正中年間(1324~1326年)、由利氏と鳥海氏の争いが激しくなると、当寺が鳥海氏方の陣所となり、兵火に遭って史書や宝物なども焼失してしまった。明応元年(1492年)、加賀国(現・石川県)の曹洞宗「大乗寺」14世・明峰素哲によって再興され、戦国時代には蒲田館(現・由利本荘市東鮎川の山城)の館主・淵名氏の祈願所となったという。本尊・釈迦如来。
当寺には「万箇将軍の墓」と呼ばれる塚があり、次のような伝説が伝えられている。即ち、天平年間(806~809年)に、唐から使節として万箇将軍が遣わされ、水が乾かない奇硯や美しい玉など宝物を朝廷に届ける途中、暴風雨に遭って難破した船は「有耶無耶の関」付近に流れ着いた。このとき、宝物が光り輝き、紫色の雲がたなびいて、「瑞光寺」に向かって流れた。将軍は「瑞光寺」の呉竹和尚に宝物を朝廷に届けるよう頼み、当地で亡くなった。和尚は都に上り、光明皇后に宝物を献上した後、「万箇将軍の墓」を建てて供養したとされる。唐から宝物が届けられたのは、唐の皇帝の后になった藤原鎌足の娘が依頼したからともいう。天平年間とは時代が少し合わないが、享保18年(1733年)には当寺で万箇将軍の千年忌が行われたらしい。なお、「万箇将軍」というのは1万人の兵士を率いる将軍のことをいい、具体的な名前は伝わっていない。


「まるまる秋田」のHPから(万箇将軍の墓)


写真1:「瑞光寺」楼門形式の山門。


写真2:同上、本堂


写真3:同上、墓地の奥から石段を上る。


写真4:同上、「万箇将軍の墓」


写真5:「有耶無耶の関」付近(場所:秋田県にかほ市象潟関)。この道路は国道7号線で、写真の左手が「ウヤムヤノ関」という地名(字)で、日本海の海岸から約300m。「瑞光寺」は、ここから東北に約20km(直線距離)離れている。


写真6:上の写真の信号標識をアップ。一般に「有耶無耶の関」は、現・宮城県と山形県の県境である「笹谷峠」付近というのが有力らしいが、芭蕉の「おくのほそ道」などでは現・秋田県と山形県の県境「三崎岬」付近としているようだ。
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小野小町遺跡(その2・岩屋洞)

2016-08-10 23:07:16 | 伝説の地
岩屋洞(いわやどう)。
場所:秋田県湯沢市小野大山沢。前項「小町堂」前の道路を北へ約300m進んで左折(南西へ)、突き当りを右折(北へ)、JR奥羽線の踏切を渡ったところにある「熊野神社」横の狭い道路に入る。道なりに進むと雄物川の川岸に出るので、突き当りを右折(北へ)、その直ぐ先の橋を渡って左折(南西へ)。駐車場有り。そこから山道を徒歩10分程度上る。
平安時代前期の女流歌人で美人の代名詞・小野小町は生まれも不詳なら、亡くなったのも不詳で、全国各地にその墓といわれるものが存在するが、確実なところは全く不明である(一般的に、平安時代には現代のイメージのような墓はなく、多くは後世の供養塔などと思われる。)。秋田県湯沢市での伝承によれば、36歳で京都の宮廷を離れ、生まれ故郷の現・湯沢市、小野の里に戻ったという。そして、有名な「深草少将の百夜通い」も、当地での出来事とされている(前項「小町堂」記事にある「二ツ森」が深草少将の墓所とされる。)。「小町堂」が「芍薬塚」と呼ばれていたのは、深草少将が毎夜、芍薬を1株ずつ植えたことに因むという。しかし、深草少将は百夜を前に亡くなってしまい、これを悔やんだ小町は「岩屋洞」という洞穴に籠り、観世音菩薩を祀りながら92歳で亡くなったとされる。なお、この間、自身の像を自刻し、当時は「岩屋洞」の麓にあったという「向野寺」に納めたという。


「まるまる秋田」のHPから(岩屋洞)


写真1:「熊野神社」(湯沢市小野字小野115)。小野小町の父、小野良実が延暦21年に建立したものという。主祭神は所謂「熊野三神」(伊邪那岐命・伊邪那美命・速玉之男神)。かつて境内に「和歌堂」という小堂があり、小野小町が書いたという和歌や文などを納めてあったが、文禄年間に最上義光の兵火により焼失してしまったという。


写真2:「野中山 向野寺」(湯沢市小野字小野138。上記「熊野神社」の北、約270m)。小野良実が小野氏の菩提寺として建立した元は天台宗の寺院「小野寺(こやじ)」で、千手観世音菩薩を祀っていた。江戸時代に曹洞宗寺院として再興され、本尊は釈迦牟尼仏。当寺に小野小町が自刻したという自らの像が安置されている。


写真3:「岩屋洞」に上る山道の途中にある「二つ滝」のうち「男滝」。別名:「小野小町沐浴の滝」。この水で洗うと眼病に効くともいう。


写真4:同上、「女滝」。


写真5:同上。「女滝」には石仏が嵌め込まれており、「小野寺」の修行の場であったという。


写真6:「岩屋洞」。間口は広いが、奥行きはあまりない。なお、湯沢市は北国・秋田県でも有数の豪雪地帯で、少なくとも雪の時期には、ここではとても生活できたとは思えない。


写真7:同上。内部には石仏が祀られている。
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