神が宿るところ

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鹿島神宮 北の一之鳥居

2022-11-05 23:30:56 | 神社
鹿島神宮 北の一之鳥居(かしまじんぐう きたのいちのとりい)。
場所:茨城県鹿嶋市浜津賀734(「戸隠神社」の住所)。茨城県道186号線(荒井行方線)と同242号線(鉾田鹿嶋線)の「荒井」交差点から東に約120mで左折(北へ)、約130m。駐車スペース有り。
常陸国一宮「鹿島神宮」の東西南北の「一之鳥居」については、現・鹿嶋市明石の「東の一之鳥居」について書いた(2022年10月22日記事)。「北の一之鳥居」は、現・鹿嶋市浜津賀の狭い市道を跨いで建てられているが、この道路は、江戸時代には現・茨城県水戸市方面から「鹿島神宮」を経由して、「息栖神社」・下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)・「飯沼観音」(「飯沼山 圓福寺」(2014年5月31日記事))に参拝するための道として「飯沼街道」と呼ばれ、参拝者の通行は4方向の参道のうち最も多く、鳥居も最大であったという。しかし、周囲に人家が少なくなって補修の寄進が集まらなくなり、明治10年に廃されたままになっていたが、2017年に硬質塩化ビニール製(腐らず、軽くて地震に強い素材)で再建された。
この鳥居の横にある「戸隠神社」は、社伝によれば、長禄元年(1457年)に信濃国(現・長野県)「戸隠神社」の分霊を勧請して創建され、浜津賀郷の鎮守となったという。祭神は手力雄男命で、「鹿島神宮」の北の入口を守るということだろう。この神社の杜は「神戸森(ごうどもり)」といって、古くはクロマツの巨樹が多く、海上からの目印にもなっていたらしい。なお、現地説明板では、「神戸」は神宮への玄関口という意味としているが、古代では神社に奉仕するための民を「神戸(かんべ)」といい、「常陸国風土記」香島郡条によれば、その当時、「「鹿島神宮」の神戸は65戸。元は8戸だったのが、第36代・孝徳天皇のときに50戸増やされ、第40代・天武天皇のときに更に9戸増やされ、合計67戸になった。持統天皇4年(690年)に、公民に2戸編入したため、65戸になった。」(現代語訳)という記述がある。あるいは、こうした神戸が多く住んでいた地区なのかもしれない。


鹿嶋市のHPから(鹿嶋の意外を巡ろう!)


写真1:「鹿島神宮」の「北の一之鳥居」。高さ6m、幅最大7.8m。


写真2:「戸隠神社」鳥居


写真3:同上、社殿。鳥居は西向き、社殿は南向き。


写真4:同上、「戸隠神社」石碑。由緒碑と思われるが、本文は読み難くなっている。


写真5:同上、社殿背後の石祠
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4 コメント

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太陽光発電 (地元民)
2024-02-14 10:20:59
この戸隠神社の森ですが鳥居の西側分の森が伐採されてしまいました。
太陽光発電設置の為です。
近くの大木の森も昨日から木を切り倒しています。
同じ業者の太陽光発電の為です。
東京の業者が地方の環境を破壊しまくっています。
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Unknown (ブログ管理人)
2024-02-14 18:24:31
地元民さま、ありがとうございます。
太陽光発電のために森が伐採されるというのは、本末転倒ですよね。「常陸国風土記」以前からあったかもしれない森は大事にしてほしいと思います。
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神戸の森 (地元民)
2024-02-15 19:48:22
この神社の森は大昔「神戸の森」と言われ、巨木が茂り海からの目印になっていたそうです。
今の数倍から数十倍の面積があったのでしょう。
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Unknown (ブログ管理人)
2024-02-16 18:18:23
地元民さま、ありがとうございます。
鹿島の浜は砂鉄が採れるので、古代から製鉄が行われていたのだろうと思います。そして、そのためかどうかはわかりませんが、クロマツの巨樹が多かったようですね。
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