清瀧山 薬王院 昌福寺(せいりゅうさん やくおういん しょうふくじ)。
場所:千葉県野田市関宿台町257。千葉県道26号線(境杉戸線)と同17号線(結城野田線)「野田市関宿台町」交差点から、南東へ約35m。駐車場あり。
寺伝によれば、天長5年(828年)、空海(弘法大師)が下総国水海村(現・茨城県古河市水海)に創建したという。長禄年間(1457~1459年)に、水海城主であった簗田持助(古河公方足利成氏の重臣)が関宿城に本拠地を移したことによって現在地に移築された。当寺院の住職は「下河邉」姓で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて下総国葛飾郡下河辺荘と呼ばれていた地域(現・茨城県古河市から埼玉県春日部市、千葉県野田市などを含む)を開発した豪族・下河辺氏の子孫と考えられているという。江戸時代には、境内地1016坪、寺領15石、末寺17ヵ寺を有する大寺院だった。明治時代には、「台町小学校」として、また「関宿町役場」として使われていたが、明治26年、火災に遭い焼失。その後、無住の時代が長く続いたが、昭和34年、廃寺となった関宿江戸町「不動院」との合併により、不動堂や石造物などが移築された。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は大日如来。
なお、境内の不動堂は、元は関宿藩主・久世氏の祈祷所だった「不動院」にあったものだが、文化15年(1818年)頃の建立で、羽目板や欄間などに見事な彫刻がある(後藤安五郎常善の作)。
清瀧山昌福寺のHP
写真1:「昌福寺」境内入口、寺号標
写真2:山門(仁王門)
写真3:山門を入ると、桜の木。正面奥に本堂。
写真4:「不動堂」(堂本尊:不動明王)。説明板も立派な屋根付き。
写真5:同上
写真6:同上、正面右
写真7:同上、正面左
写真8:同上、向かって左側(南西側)
写真9:同上、右側(北東側)
写真10:境内の石造物
場所:千葉県野田市関宿台町257。千葉県道26号線(境杉戸線)と同17号線(結城野田線)「野田市関宿台町」交差点から、南東へ約35m。駐車場あり。
寺伝によれば、天長5年(828年)、空海(弘法大師)が下総国水海村(現・茨城県古河市水海)に創建したという。長禄年間(1457~1459年)に、水海城主であった簗田持助(古河公方足利成氏の重臣)が関宿城に本拠地を移したことによって現在地に移築された。当寺院の住職は「下河邉」姓で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて下総国葛飾郡下河辺荘と呼ばれていた地域(現・茨城県古河市から埼玉県春日部市、千葉県野田市などを含む)を開発した豪族・下河辺氏の子孫と考えられているという。江戸時代には、境内地1016坪、寺領15石、末寺17ヵ寺を有する大寺院だった。明治時代には、「台町小学校」として、また「関宿町役場」として使われていたが、明治26年、火災に遭い焼失。その後、無住の時代が長く続いたが、昭和34年、廃寺となった関宿江戸町「不動院」との合併により、不動堂や石造物などが移築された。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は大日如来。
なお、境内の不動堂は、元は関宿藩主・久世氏の祈祷所だった「不動院」にあったものだが、文化15年(1818年)頃の建立で、羽目板や欄間などに見事な彫刻がある(後藤安五郎常善の作)。
清瀧山昌福寺のHP
写真1:「昌福寺」境内入口、寺号標
写真2:山門(仁王門)
写真3:山門を入ると、桜の木。正面奥に本堂。
写真4:「不動堂」(堂本尊:不動明王)。説明板も立派な屋根付き。
写真5:同上
写真6:同上、正面右
写真7:同上、正面左
写真8:同上、向かって左側(南西側)
写真9:同上、右側(北東側)
写真10:境内の石造物
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