神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

御門御墓

2021-01-30 23:21:49 | 伝説の地
御門御墓(みかどおはか)。別名:将門塚。
場所:茨城県桜川市大国玉3803付近。茨城県道148号線(東山田岩瀬線)「前原十字路」から北東へ約1.2km、「大国郵便局」のある道路へ入る。約240m進んだところで左折(西~北西へ)、約400m進んで左折(西へ)、狭い道路を約200m、突き当りの直ぐ左側。駐車場なし。目印が無いのでわかりにくいが、地図で見ると「光明寺」という寺院の反対側(西へ直線距離で約280m)辺り。
「御門御墓」は、平将門の供養塔とされる4基の五輪塔である。伝承では、かつて当地に将門の居館があり、非業の死を遂げた将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために建てられたという。現地の説明板によれば、鎌倉時代初期のものとされる。当地の地名(字名)である「三門(みかど)」は、将門が「新皇」と自称したところから、「帝」→「御門」→「三門」に変わったものという。将門の本拠地がどこであったかということについては諸説あるが、現在の茨城県坂東市岩井周辺というのが通説。そして、当時、当地を含む現・桜川市大国玉には平真樹(たいらのまさき)という豪族の館があり、式内社「大國玉神社」(2018年11月10日記事)と、真壁・新治・筑波の広い範囲を領地として支配していたとされる。真樹は、「平」姓を名乗ってはいるものの、高望王流桓武平氏の一族かは明確ではないとされるが、その娘が将門の妻(「君の御前」)として嫁いだ(つまり、将門の義父に当たる。)といわれている。もともと、その領地をめぐって常陸大掾・源護(みなもとのまもる)と対立していて、将門は真樹側につくことになる。加えて、君の御前が源護の3人の息子から横恋慕されたというような話もあって(こちらは尾鰭のようなものだろうが)、これが「平将門の乱」の原因となったとされる。よって、「御門御墓」は真樹の供養塔でもあるとみたほうがよいようだ。なお、当地には奈良時代創建の「西山寺」(三門廃寺)という寺院があったという説もあるようだが、詳細不明。
そして、当地の南東、約1km(直線距離)のところに「后神社」がある。ここの地名(字名)は「木崎(きさき)」=后で、「三門(みかど)」=帝と対をなしているという。「将門記」によれば、承平7年(937年)、将門は叔父・平良兼に攻められ、君の御前と子を殺害された(「将門記」は平安時代中~後期成立ともいわれるが、軍記物語であって伝記ではなく、記事に重複や矛盾する箇所もあるとされる。)。君の御前は将門の正室であり、死後、将門により「后」として祀られたのが「后神社」であるとされる。御神体は、平安時代の「五衣垂髪」(「五衣(いつごろも)」、いわゆる「十二単」(じゅうにひとえ)の着物に、背に長く垂らした髪型である「垂髪」(すいはつ、すべらかし)の女人木像で、これは現・茨城県坂東市の「國王神社」(2012年10月6日記事)の御神体である将門公の木像と対のものであるという。幕末、水戸藩士・青山延光が「后神社考」で、「后神社」の祭神は、式内社「大國玉神社」の祭神・大国主命の后である須勢理毘売命(スセリビメ)だという説を提唱した。 村人たちはこれを信じ、明治に入ると「大國玉神社」に合祀してしまった。すると、村に疫病が流行したため、「将門様の祟りだ」と恐れて「后神社」を元に戻したところ、疫病は治まったという。というようなことがあってか、現在の祭神は、須勢理毘売命と君の御前。
なお、「后神社」の北側(県道を隔てた向かい側の民家の裏手)に「木崎宝塚古墳」という円墳があって、墳上に稲荷社の小祠が祀られているという(未確認)。これは平将門が財宝を埋めた塚であるとの伝承があり、「将門宝塚」と呼ばれていた。そして、この辺りは桜川の右岸で、台地の東端に当たり、平真樹の城館があったところともいう。
蛇足:地図の「御門御墓」と「后神社」を直線でつなぐと、ちょうど中間に「大國玉神社」が鎮座している。何か意味があるのだろうか。


桜川市観光協会のHPから(御門(三門)御墓)


写真1:「御門御墓」入口。民家の庭のようなところだが、説明板が立てられている。


写真2:「御門御墓」。4基の石塔だが、向かって左端のものは低くて、よく見えないかもしれない。


写真3:「后神社」社殿(場所:桜川市大国玉1840。「大国小学校」東側から茨城県道343号線(木崎雨引停車場撰)を東に約200m。駐車スペースあり。)


写真4:同上、本殿


写真5:同上、拝殿と本殿の覆い屋が一体となっているような建物で、小さな本殿が中にある。
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諏訪の水穴

2020-02-01 23:33:27 | 伝説の地
諏訪の水穴(すわのみずあな)。別名:神仙洞。
場所:茨城県日立市諏訪町1157。国道6号線「油縄子(ゆなわご)」交差点から日立市道7号線(通称:梅林通り)に入り、北西へ約3.5km。市道は途中で茨城県道37号線(日立常陸太田線)になるが、県道沿いに石碑と説明板があり、そこから鮎川の川原に下りる。駐車場なし(説明板付近に1台程度駐車可?)。
「諏訪の水穴」は現在も清水が湧き出ている鍾乳洞で、説明板によると「普賢ヶ嶽」の麓にあるとなっているが、すぐ隣に「日立セメント(株)大平田鉱山」があって、セメント原料となる石灰石を採掘している。つまり、「普賢ヶ嶽」は石灰岩の山で、そこに浸み込んだ雨水や地下水が溶食してできた洞窟ということになる。そして、「諏訪神社」に因む次のような伝説がある。当地の「諏訪神社」は、信濃国一宮「諏訪大社」(長野県諏訪市など諏訪湖の周りに上社(本宮・前宮)、下社(春宮・秋宮)の4社がある。)の神人(じにん。下級神職)であった藤原高利(万年大夫)が建長2年(1250年)に勧請したもので、本社に倣い、現・日立市西成沢町に上社(上諏訪神社)を、現・日立市諏訪町に下社(下諏訪神社)を創建したという。この万年大夫とその妻・万年守子(「守子」は名ではなく、巫女のことらしい。)は、自らの木像を作って下社の拝殿に納めた後、この水穴を通って故郷である諏訪に戻るとして中に入った。入る際に大量の籾殻を背負い、少しずつ籾殻を水に流した。村人が籾殻の流れ出てくるのを見守っていたが、7日を過ぎると籾殻は絶え、万年大夫夫婦も出てこなかった、という。
後に、水戸藩第2代藩主・徳川光圀がこの夫婦の像をみたところ、年が経って腐朽していたため、新たに夫婦の木像を作り、古い木造を胎内に納めたという。この新たな木像(元禄3年(1690年)銘がある。)は現在も残されており、茨城県指定文化財に指定される際に行われた調査により胎内像も発見された。胎内像は鎌倉時代の神職の装束をしており、中世のものと確認されているという(現在は日立市郷土博物館で常設展示)。徳川光圀も洞窟の中に入ってみたらしいが、狭くなった「三の戸」という場所よりは奥に進んではいけない、と命じたとか。
戦後、下流に防災ダムが造られたことにより、この洞窟は砂利に埋まってしまったが、地元の強い復興運動により昔の姿に戻ったという(説明板は昭和57年設置)。


茨城県教育委員会のHPから(木造 万年大夫夫婦坐像(胎内像含))


日立市郷土博物館のHPから(常設展)


写真1:「諏訪の水穴」石碑と説明板


写真2:「諏訪の水穴」


写真3:同上。現在もかなりの水量がある。


写真4:「厳島神社」。「諏訪の水穴」の直ぐ横にある。


写真5:「諏訪神社」(上社)入口の鳥居。社号標は「上諏訪神社」(場所:茨城県日立市西成沢町3-21。「諏訪の水穴」から県道を南東へ約2km(「上諏訪橋」を渡ったところ)。更に200mほど東に進んだところに駐車場入口がある。)。


写真6:同上、駐車場のところにある二の鳥居


写真7:同上、社殿


写真8:「諏訪神社」(下社)入口の鳥居。社号標は「村社 諏訪神社」(場所:茨城県日立市諏訪町3-11。「諏訪の水穴」から南東へ約2.5km(「梅林通り」沿い。)。駐車場有り)。


写真9:同上、二の鳥居。額に「諏訪第二宮」とあるが、これは本社の「諏訪大社」に次ぐものという意味とのこと。


写真10:同上、御手洗石。水がなく、黒ずんでいるが、これも石灰石だろう。形が面白く、磨けば素晴らしい名石なのだろう。


写真11:同上、社殿


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鏡ヶ池(茨城県常陸大宮市)

2019-09-14 23:23:42 | 伝説の地
鏡ヶ池(かがみがいけ)。
場所:茨城県常陸大宮市下岩瀬501(春日神社の住所)。茨城県道61号線(日立笠間線)の久慈川に架かる「栄橋」の南西側の信号機がある交差点を北西へ、約1.5km。県道から少し東に入ったところに「下岩瀬新農村集落センター」があり、その近くに「鏡ヶ池」の案内板が立っている。「春日神社」社殿は「集落センターの南側、「鏡ヶ池」はその東側になる。駐車場は「集落センター」駐車場を利用。
現・茨城県常陸太田市の「長者屋敷跡」(前項)の「万石長者伝説」には続きがある。「万石長者」も、他の長者伝説と同様に、八幡太郎・源義家の軍勢に豪華な饗応をしたために却って警戒を持たせ、滅ぼされたという話であるが、違うのは、長者の幼い娘(朝日姫)が乳母に助けられて脱出し、現・茨城県常陸大宮市下岩瀬の「春日神社」付近に隠れ住んだ、というところである。「長者屋敷跡」からは、間に久慈川を挟むが、南西に直線距離で3km程。伝説によれば、朝日姫が18歳になったとき、万石長者の家を再興しようと、「岩瀬大明神」(現・「春日神社」)に百ヵ日の祈願を行った。その満願の日の朝、池辺の松に秘蔵の「八稜鏡」を掛けて化粧を始めたところ、誤って鏡を池の中に落としてしまった。朝日姫は、慌てて鏡を拾おうとして足を滑らし、池に落ちて溺れ死んだ。数百年経ち、池から妖気が漂うようになり、これが無念の思いを抱いて亡くなった朝日姫の怨霊であろうということになった。そこで、浄土宗「草地山 蓮華院 常福寺」(現・茨城県那珂市)第2世・了誉上人(上岩瀬城主・白石志摩守宗義の遺児という。1341~1420年)が朝日姫の霊を慰めて成仏させた。その後、一匹の亀が「八稜鏡」を背負って池から浮かび上がった。この鏡は「常福寺」に納められ、今も寺宝として保存されている(茨城県指定文化財。鎌倉時代中期頃の作とされる。)。また、当地では、亀を捕まえても、殺さずに「鏡ヶ池」に放つという。折角、生き延びたのに、神に祈って満願の日におぼれ死ぬ、数百年経ってから祟る、というようなところが、いろいろ割り切れない、理解しにくい話だが、色々な伝承が結びついて成立した民話なのだろうと思う。なお、「春日神社」の南西側に中世の館跡が発見されており(「下岩瀬館」)、そこに住んでいた若い女性が「鏡ヶ池」で溺れ死んだような事件があったのかもしれない。
因みに、下岩瀬の「春日神社」(常陸大宮市には同名の神社が4社ある。)は、社伝によれば、大同2年(807年)の創建。「岩瀬大明神」と称され、岩瀬地区の総鎮守であり、佐竹氏の祈願所でもあった。元禄年間(1688~1704年)、水戸藩第2代・徳川光圀の命により「春日神社」と改称したという。現在の祭神は、天照大神、天児屋根命、武甕槌命、経津主名、姫大神。


常陸大宮市観光協会のHPから(朝日姫と鏡ヶ池)

常福寺のHP:寺宝の「八稜鏡」の画像があります。


写真1:「春日神社 累代城主祈願所 霊跡鏡ヶ池」の案内板。「春日神社」よりも「鏡ヶ池」の文字の方が大きい。


写真2:「春日神社」社号標


写真3:同上、鳥居


写真4:同上、拝殿


写真5:同上、本殿


写真6:「鏡ヶ池」


写真7:同上


写真8:同上、ちょうど睡蓮(スイレン)が咲いていた。


写真9:「春日神社」と「鏡ヶ池」の由来を刻した石碑
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朝房山(常陸国式外社・その7?)

2019-04-13 23:32:22 | 伝説の地
朝房山(あさぼうやま)。浅房山とも書く。
場所:茨城県笠間市池野辺。登山ルートは複数あるが、もっとも簡単なのは、茨城県道61号線(日立笠間線)と同113号線(真端水戸線)の交差点から113号線を約150m進んで左手の側道に入り、道なりに直進(概ね東の方向)、約2kmで登山口。ここまで自動車で行けるが、駐車スペースが殆どないので、手前に止めてきた方がよい。登山口からは徒歩5~10分。
「朝房山」は茨城県笠間市、水戸市、城里町に跨る山(標高201m)で、「常陸国風土記」那賀郡の条にみえる「晡時臥山(くれふしやま)」のことであるというのが通説となっている。そして、「常陸国風土記」には「(かつて、この地に)努賀毘古(ヌカビコ)、努賀毘咩(ヌカビメ)という兄妹がいた。妹には通ってくる正体不明の男があり、一夜にして身ごもり、小さな蛇を生んだ。この蛇は夜になると話をするので、神の子であろうと思い、清らかな杯(つき)に入れて祭壇に置いたところ、どんどん大きくなって盆(ひらか)に取り換えたが、それも一杯になり、入れる器がなくなった。そこで、母親が、もうこれ以上養育できないので、父親(神)のところへ行きなさい、と告げた。蛇は承知したが、1人の童を従者として付けてくれるよう頼んだ。しかし、家には伯父と母親しか居ないので、断った。蛇はこれを恨んで、昇天しようとするとき、伯父を怒り殺してしまったので、母親が瓫(ひらか、又は、みか)を投げつけたところ、蛇は昇天できなくなって、この山に留まった。その蛇を入れた瓫甕(みか)は今も片岡村に残っており、ヌカビメらの子孫が社を建てて(蛇神を)代々祀っている。」という古老の話が記されている。
この話は、夜ごと、正体不明の男が通ってきて契り、神の子を産む、というところが、所謂「三輪山伝説」に似ている。「三輪山伝説」では、正体不明の男は大物主神であり、雷神・蛇神でもある。ただし、「常陸国風土記」の話では、結局、神の子は昇天できず、その後の消息が不明で、やや尻すぼみ感がある。ここで重要なのは、瓫(素焼きの平たい盆のような容器)などが神聖な力を持っていると考えられたこと、(昇天する力を失ったとはいえ)蛇を神の子として祀り、その祭祀が代々続いているというところだろう。この社が今もあるのか、どの神社に当たるのか、ということには諸説あるが、朝房山山頂に「朝房権現」と呼ばれる石祠が今もある。そして、「片岡の村」というのは、「朝房山」の西麓の現・笠間市大橋に「岡の宿」という地名があり、これが遺称地であるという説がある。あるいは、南方の現・水戸市谷津町付近とする説もある。
ところで、「晡時臥山」というのはどういう意味だろうか。「晡時」は申(さる)の刻で、日暮れ時(午後4時頃)のことだといい、その時に伏せている(寝ている?)山...と言われても、よくわからない。いろいろと解釈されているが、ここは昔話を紹介する。「昔、大足の村(現・水戸市大足町)にダイダラボウ(ダイダラボッチ)という大男が住んでいた。その村の南に大きな山があって、日が出るのが遅かった。村人はなかなか農作業が始められず、困っていた。これを聞いたダイダラボウは、その大きな山を持ち上げ、北の方へ担いでいった。これによって、大足の村は日当たりが良くなり、村人は大いに喜んだ。この山が朝房山で、この山が元の場所にあった頃は、村人が日暮れまで寝ているということで「朝寝坊山」と呼ばれていた、という。」(なお、ダイダラボウについては「大串貝塚」(2018年7月14日記事)、「だいだら坊の背負い石」(2018年9月8日記事)参照)。


茨城県のHPから(くれふし山”朝房山”)


写真1:「朝房山」登山道入口の鳥居。ここで標高約160m。


写真2:山上の「常陸名山 浅房山」石碑。裏面に「常陸国風土記」の話が刻されている。


写真3:木に囲まれた石祠


写真4:同上、「朝房権現」祠と思われる。扉が開いたままで、中にはなにもない。


写真5:三角点
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辰子姫誕生之地(三湖物語・その5)

2017-02-04 23:59:39 | 伝説の地
辰子姫誕生之地(たつこひめたんじょうのち)。
場所:秋田県仙北市田沢湖岡崎字神成沢。わかりやすい案内が難しいが、神代中学校付近の北、約5km(直線距離)。道路際に案内板がある。駐車場なし。
伝承によれば、旧・院内村の神成沢に安倍三之丞という家があって、辰子という美しい娘がいた。辰子は、永遠の美を願い、「大蔵山千手観音」に百日の願かけをした。その満願の日の夜、夢の中に観音が現れ、「ひたすら北へ向かい、清らかに湧いている泉の水を飲めば、願いはかなえられるだろう。」とのお告げがあった。そこで、辰子は村の北にある「院内嶽」を越え、更に北に進むと泉を見つけた。その泉の水を飲むと、いつまでも渇きが収まらず、飲み続けているうちに、俄かに空が曇り、雷が鳴り豪雨が降りだした。山が崩れ、谷が裂け、見る間に大きな湖ができた。そして、辰子は巨大な龍に変身していた、という。これが田沢湖と辰子姫の物語である。
さて、その辰子(姫)の誕生の地、神成沢に木碑と物語の説明板が設置されている。そして、そこに辰子の墓とされるものもある。墓といっても、辰子は「永遠の美(命)」を得たはずなので、下に辰子の死体が埋まっているはずはないが・・・。


写真1:「辰子姫誕生之地」の木碑。後ろの土手を進む。なお、奥の民家は、辰子とは無関係らしい。


写真2:「辰子姫伝説」の説明板


写真3:辰子の墓、とされる石碑。ただし、どれが辰子のものかは、よくわからない。


写真4:五輪塔?
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