神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

諏訪の水穴

2020-02-01 23:33:27 | 伝説の地
諏訪の水穴(すわのみずあな)。別名:神仙洞。
場所:茨城県日立市諏訪町1157。国道6号線「油縄子(ゆなわご)」交差点から日立市道7号線(通称:梅林通り)に入り、北西へ約3.5km。市道は途中で茨城県道37号線(日立常陸太田線)になるが、県道沿いに石碑と説明板があり、そこから鮎川の川原に下りる。駐車場なし(説明板付近に1台程度駐車可?)。
「諏訪の水穴」は現在も清水が湧き出ている鍾乳洞で、説明板によると「普賢ヶ嶽」の麓にあるとなっているが、すぐ隣に「日立セメント(株)大平田鉱山」があって、セメント原料となる石灰石を採掘している。つまり、「普賢ヶ嶽」は石灰岩の山で、そこに浸み込んだ雨水や地下水が溶食してできた洞窟ということになる。そして、「諏訪神社」に因む次のような伝説がある。当地の「諏訪神社」は、信濃国一宮「諏訪大社」(長野県諏訪市など諏訪湖の周りに上社(本宮・前宮)、下社(春宮・秋宮)の4社がある。)の神人(じにん。下級神職)であった藤原高利(万年大夫)が建長2年(1250年)に勧請したもので、本社に倣い、現・日立市西成沢町に上社(上諏訪神社)を、現・日立市諏訪町に下社(下諏訪神社)を創建したという。この万年大夫とその妻・万年守子(「守子」は名ではなく、巫女のことらしい。)は、自らの木像を作って下社の拝殿に納めた後、この水穴を通って故郷である諏訪に戻るとして中に入った。入る際に大量の籾殻を背負い、少しずつ籾殻を水に流した。村人が籾殻の流れ出てくるのを見守っていたが、7日を過ぎると籾殻は絶え、万年大夫夫婦も出てこなかった、という。
後に、水戸藩第2代藩主・徳川光圀がこの夫婦の像をみたところ、年が経って腐朽していたため、新たに夫婦の木像を作り、古い木造を胎内に納めたという。この新たな木像(元禄3年(1690年)銘がある。)は現在も残されており、茨城県指定文化財に指定される際に行われた調査により胎内像も発見された。胎内像は鎌倉時代の神職の装束をしており、中世のものと確認されているという(現在は日立市郷土博物館で常設展示)。徳川光圀も洞窟の中に入ってみたらしいが、狭くなった「三の戸」という場所よりは奥に進んではいけない、と命じたとか。
戦後、下流に防災ダムが造られたことにより、この洞窟は砂利に埋まってしまったが、地元の強い復興運動により昔の姿に戻ったという(説明板は昭和57年設置)。


茨城県教育委員会のHPから(木造 万年大夫夫婦坐像(胎内像含))


日立市郷土博物館のHPから(常設展)


写真1:「諏訪の水穴」石碑と説明板


写真2:「諏訪の水穴」


写真3:同上。現在もかなりの水量がある。


写真4:「厳島神社」。「諏訪の水穴」の直ぐ横にある。


写真5:「諏訪神社」(上社)入口の鳥居。社号標は「上諏訪神社」(場所:茨城県日立市西成沢町3-21。「諏訪の水穴」から県道を南東へ約2km(「上諏訪橋」を渡ったところ)。更に200mほど東に進んだところに駐車場入口がある。)。


写真6:同上、駐車場のところにある二の鳥居


写真7:同上、社殿


写真8:「諏訪神社」(下社)入口の鳥居。社号標は「村社 諏訪神社」(場所:茨城県日立市諏訪町3-11。「諏訪の水穴」から南東へ約2.5km(「梅林通り」沿い。)。駐車場有り)。


写真9:同上、二の鳥居。額に「諏訪第二宮」とあるが、これは本社の「諏訪大社」に次ぐものという意味とのこと。


写真10:同上、御手洗石。水がなく、黒ずんでいるが、これも石灰石だろう。形が面白く、磨けば素晴らしい名石なのだろう。


写真11:同上、社殿


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鏡ヶ池(茨城県常陸大宮市)

2019-09-14 23:23:42 | 伝説の地
鏡ヶ池(かがみがいけ)。
場所:茨城県常陸大宮市下岩瀬501(春日神社の住所)。茨城県道61号線(日立笠間線)の久慈川に架かる「栄橋」の南西側の信号機がある交差点を北西へ、約1.5km。県道から少し東に入ったところに「下岩瀬新農村集落センター」があり、その近くに「鏡ヶ池」の案内板が立っている。「春日神社」社殿は「集落センターの南側、「鏡ヶ池」はその東側になる。駐車場は「集落センター」駐車場を利用。
現・茨城県常陸太田市の「長者屋敷跡」(前項)の「万石長者伝説」には続きがある。「万石長者」も、他の長者伝説と同様に、八幡太郎・源義家の軍勢に豪華な饗応をしたために却って警戒を持たせ、滅ぼされたという話であるが、違うのは、長者の幼い娘(朝日姫)が乳母に助けられて脱出し、現・茨城県常陸大宮市下岩瀬の「春日神社」付近に隠れ住んだ、というところである。「長者屋敷跡」からは、間に久慈川を挟むが、南西に直線距離で3km程。伝説によれば、朝日姫が18歳になったとき、万石長者の家を再興しようと、「岩瀬大明神」(現・「春日神社」)に百ヵ日の祈願を行った。その満願の日の朝、池辺の松に秘蔵の「八稜鏡」を掛けて化粧を始めたところ、誤って鏡を池の中に落としてしまった。朝日姫は、慌てて鏡を拾おうとして足を滑らし、池に落ちて溺れ死んだ。数百年経ち、池から妖気が漂うようになり、これが無念の思いを抱いて亡くなった朝日姫の怨霊であろうということになった。そこで、浄土宗「草地山 蓮華院 常福寺」(現・茨城県那珂市)第2世・了誉上人(上岩瀬城主・白石志摩守宗義の遺児という。1341~1420年)が朝日姫の霊を慰めて成仏させた。その後、一匹の亀が「八稜鏡」を背負って池から浮かび上がった。この鏡は「常福寺」に納められ、今も寺宝として保存されている(茨城県指定文化財。鎌倉時代中期頃の作とされる。)。また、当地では、亀を捕まえても、殺さずに「鏡ヶ池」に放つという。折角、生き延びたのに、神に祈って満願の日におぼれ死ぬ、数百年経ってから祟る、というようなところが、いろいろ割り切れない、理解しにくい話だが、色々な伝承が結びついて成立した民話なのだろうと思う。なお、「春日神社」の南西側に中世の館跡が発見されており(「下岩瀬館」)、そこに住んでいた若い女性が「鏡ヶ池」で溺れ死んだような事件があったのかもしれない。
因みに、下岩瀬の「春日神社」(常陸大宮市には同名の神社が4社ある。)は、社伝によれば、大同2年(807年)の創建。「岩瀬大明神」と称され、岩瀬地区の総鎮守であり、佐竹氏の祈願所でもあった。元禄年間(1688~1704年)、水戸藩第2代・徳川光圀の命により「春日神社」と改称したという。現在の祭神は、天照大神、天児屋根命、武甕槌命、経津主名、姫大神。


常陸大宮市観光協会のHPから(朝日姫と鏡ヶ池)

常福寺のHP:寺宝の「八稜鏡」の画像があります。


写真1:「春日神社 累代城主祈願所 霊跡鏡ヶ池」の案内板。「春日神社」よりも「鏡ヶ池」の文字の方が大きい。


写真2:「春日神社」社号標


写真3:同上、鳥居


写真4:同上、拝殿


写真5:同上、本殿


写真6:「鏡ヶ池」


写真7:同上


写真8:同上、ちょうど睡蓮(スイレン)が咲いていた。


写真9:「春日神社」と「鏡ヶ池」の由来を刻した石碑
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朝房山(常陸国式外社・その7?)

2019-04-13 23:32:22 | 伝説の地
朝房山(あさぼうやま)。浅房山とも書く。
場所:茨城県笠間市池野辺。登山ルートは複数あるが、もっとも簡単なのは、茨城県道61号線(日立笠間線)と同113号線(真端水戸線)の交差点から113号線を約150m進んで左手の側道に入り、道なりに直進(概ね東の方向)、約2kmで登山口。ここまで自動車で行けるが、駐車スペースが殆どないので、手前に止めてきた方がよい。登山口からは徒歩5~10分。
「朝房山」は茨城県笠間市、水戸市、城里町に跨る山(標高201m)で、「常陸国風土記」那賀郡の条にみえる「晡時臥山(くれふしやま)」のことであるというのが通説となっている。そして、「常陸国風土記」には「(かつて、この地に)努賀毘古(ヌカビコ)、努賀毘咩(ヌカビメ)という兄妹がいた。妹には通ってくる正体不明の男があり、一夜にして身ごもり、小さな蛇を生んだ。この蛇は夜になると話をするので、神の子であろうと思い、清らかな杯(つき)に入れて祭壇に置いたところ、どんどん大きくなって盆(ひらか)に取り換えたが、それも一杯になり、入れる器がなくなった。そこで、母親が、もうこれ以上養育できないので、父親(神)のところへ行きなさい、と告げた。蛇は承知したが、1人の童を従者として付けてくれるよう頼んだ。しかし、家には伯父と母親しか居ないので、断った。蛇はこれを恨んで、昇天しようとするとき、伯父を怒り殺してしまったので、母親が瓫(ひらか、又は、みか)を投げつけたところ、蛇は昇天できなくなって、この山に留まった。その蛇を入れた瓫甕(みか)は今も片岡村に残っており、ヌカビメらの子孫が社を建てて(蛇神を)代々祀っている。」という古老の話が記されている。
この話は、夜ごと、正体不明の男が通ってきて契り、神の子を産む、というところが、所謂「三輪山伝説」に似ている。「三輪山伝説」では、正体不明の男は大物主神であり、雷神・蛇神でもある。ただし、「常陸国風土記」の話では、結局、神の子は昇天できず、その後の消息が不明で、やや尻すぼみ感がある。ここで重要なのは、瓫(素焼きの平たい盆のような容器)などが神聖な力を持っていると考えられたこと、(昇天する力を失ったとはいえ)蛇を神の子として祀り、その祭祀が代々続いているというところだろう。この社が今もあるのか、どの神社に当たるのか、ということには諸説あるが、朝房山山頂に「朝房権現」と呼ばれる石祠が今もある。そして、「片岡の村」というのは、「朝房山」の西麓の現・笠間市大橋に「岡の宿」という地名があり、これが遺称地であるという説がある。あるいは、南方の現・水戸市谷津町付近とする説もある。
ところで、「晡時臥山」というのはどういう意味だろうか。「晡時」は申(さる)の刻で、日暮れ時(午後4時頃)のことだといい、その時に伏せている(寝ている?)山...と言われても、よくわからない。いろいろと解釈されているが、ここは昔話を紹介する。「昔、大足の村(現・水戸市大足町)にダイダラボウ(ダイダラボッチ)という大男が住んでいた。その村の南に大きな山があって、日が出るのが遅かった。村人はなかなか農作業が始められず、困っていた。これを聞いたダイダラボウは、その大きな山を持ち上げ、北の方へ担いでいった。これによって、大足の村は日当たりが良くなり、村人は大いに喜んだ。この山が朝房山で、この山が元の場所にあった頃は、村人が日暮れまで寝ているということで「朝寝坊山」と呼ばれていた、という。」(なお、ダイダラボウについては「大串貝塚」(2018年7月14日記事)、「だいだら坊の背負い石」(2018年9月8日記事)参照)。


茨城県のHPから(くれふし山”朝房山”)


写真1:「朝房山」登山道入口の鳥居。ここで標高約160m。


写真2:山上の「常陸名山 浅房山」石碑。裏面に「常陸国風土記」の話が刻されている。


写真3:木に囲まれた石祠


写真4:同上、「朝房権現」祠と思われる。扉が開いたままで、中にはなにもない。


写真5:三角点
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辰子姫誕生之地(三湖物語・その5)

2017-02-04 23:59:39 | 伝説の地
辰子姫誕生之地(たつこひめたんじょうのち)。
場所:秋田県仙北市田沢湖岡崎字神成沢。わかりやすい案内が難しいが、神代中学校付近の北、約5km(直線距離)。道路際に案内板がある。駐車場なし。
伝承によれば、旧・院内村の神成沢に安倍三之丞という家があって、辰子という美しい娘がいた。辰子は、永遠の美を願い、「大蔵山千手観音」に百日の願かけをした。その満願の日の夜、夢の中に観音が現れ、「ひたすら北へ向かい、清らかに湧いている泉の水を飲めば、願いはかなえられるだろう。」とのお告げがあった。そこで、辰子は村の北にある「院内嶽」を越え、更に北に進むと泉を見つけた。その泉の水を飲むと、いつまでも渇きが収まらず、飲み続けているうちに、俄かに空が曇り、雷が鳴り豪雨が降りだした。山が崩れ、谷が裂け、見る間に大きな湖ができた。そして、辰子は巨大な龍に変身していた、という。これが田沢湖と辰子姫の物語である。
さて、その辰子(姫)の誕生の地、神成沢に木碑と物語の説明板が設置されている。そして、そこに辰子の墓とされるものもある。墓といっても、辰子は「永遠の美(命)」を得たはずなので、下に辰子の死体が埋まっているはずはないが・・・。


写真1:「辰子姫誕生之地」の木碑。後ろの土手を進む。なお、奥の民家は、辰子とは無関係らしい。


写真2:「辰子姫伝説」の説明板


写真3:辰子の墓、とされる石碑。ただし、どれが辰子のものかは、よくわからない。


写真4:五輪塔?
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徐福塚(秋田県男鹿市)

2017-01-14 23:26:40 | 伝説の地
徐福塚(じょふくづか)。
場所:秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川27。JR男鹿線「男鹿駅」前付近から秋田県道59号線(男鹿半島線)を南西~西へ、約14km。「五社堂入口」の案内板が出ているところに「長楽寺」駐車場がある。
「赤神神社」(前項)の前身である「赤神山 日積寺 永禅院」は、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師、第3代天台座主)により創建されたとされる。以来、山岳修験の霊場として栄え、往時には9ヵ寺48坊があったという。南北朝時代には天台宗から真言宗に改宗、明治期の神仏分離により「赤神神社」が独立する一方で、「日積寺 永禅院」は廃寺となった。「男鹿本山(瑠璃山) 長楽寺」は、現在まで残る数少ない末寺の1つで、現在は真言宗智山派に属し、本尊は薬師如来。また、秋田三十三観音霊場の第26番札所ともなっている(霊場本尊は如意輪観音)。「赤神神社 五社堂」の999段の石段の中腹辺りにあり、その近道になる。
さて、「長楽寺」境内に「徐福塚」がある。徐福というのは、中国の秦の時代の方士(方術、即ち卜占・医術・錬金術などを行う者で、仙人修行をする者というのがイメージに近いか?)で、司馬遷の「史記」のうち「淮南衝山列伝」に、始皇帝(在位:前247~210年)の命を受けて不老不死の霊薬を探しに出かけた、という記事がある。より具体的には、中国の東方に「三神山(蓬莱・方丈・瀛州)」というところがあって、そこにある不老不死の霊薬を求め、3千人の若い男女と五穀の種、多くの技術者たちを連れて船出した。しかし、上陸した先で広い土地を得て、王となり、帰らなかった、とされる。このエピソードから、徐福が向かった先は日本であり、徐福や同行した人々が日本人の祖先となった、という伝説が生まれた。こうして、日本各地に徐福の上陸地など、所縁があるとされる場所が存在することとなったらしい。
秋田県男鹿市の「徐福塚」が何を記念したものかは不明。この「徐福塚」のことは、江戸時代の紀行家・菅江真澄の記録にあり、図面も書いている。その後、当時の「徐福塚」は所在不明となっていたが、2005年に「徐福塚復元実行委員会」によって現在の「徐福塚」が復元されたものという。菅江真澄自身は、この「徐福塚」がさほど古いものではなく、徐福が上陸したのは紀州(現・和歌山県)であるという説が流布していたことから、「徐福塚」を建てたのは紀州・熊野の修験者ではないか、と冷静な判断をしているようである。ただ、前項の「赤神神社」の「赤神」=漢の武帝、という伝説もそうであるが、古くからの中国との結びつきを感じさせる。紀元前3世紀はともかくも、「続日本紀」によれば、天平18 年(746年)、渤海及び鉄利の人1千1百人が出羽国に漂着した、という記録もあり、中国大陸と日本海側諸国との往来があったことが背景となっているように思われる。
蛇足ながら、上記「史記」の別のところ(「秦始皇帝本紀」)では、徐福は始皇帝の命を受け、船出の援助を受けたものの、出立しないまま、そのうちに始皇帝が崩御した、と書かれている(要するに、徐福は始皇帝を騙して金品を受け取った人物である。)らしい。こちらだと、何のロマンもない話となるが・・・。


写真1:「長楽寺」本堂


写真2:同、「宝物殿」手前の鳥居。その先、「赤神神社 五社堂」方面


写真3:境内の宝篋印塔


写真4:同、「徐福塚」(復元)





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