神が宿るところ

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公津ヶ原古墳群

2012-06-16 23:49:42 | 古墳
公津ヶ原古墳群(こうづがはらこふんぐん)。

船塚古墳(ふなづかこふん)。
場所:千葉県成田市赤坂1-2。成田ニュータウンのほぼ中央にある「赤塚公園」内の北東部。駐車場有り。
全長85mという印旛地域最大の古墳で、千葉県内では珍しい前方後方墳。鼓形といわれるが、殆ど括れがなく、長方形に近い形をしているので、長方墳とされることもある。後方部に石棺らしきものがあったという記録があるが、正式な発掘調査は行われていない。墳丘の表面から埴輪の破片が採集されており、築造年代は7世紀頃と考えられている。なお、かつては、南西側に直径50mの大円墳があったという。

天王塚古墳(てんのうづかこふん)。
場所:吾妻小学校の北、約400m。市道交差点の南西角に「吾妻神社」(千葉県成田市吾妻3-41)があり、その西側にある。駐車場なし。
全長63m、公津ヶ原古墳群の中では最大の前方後円墳。こちらも発掘調査が行われておらず、詳細は不明。森のようになっているが、括れが明瞭で、前方部に「八坂神社」、後円部に「浅間神社」の小祠がある。「天王塚古墳」という名は、「八坂神社」の牛頭天王によるものだろう。
なお、「天王塚古墳」の東にある「吾妻神社」の本殿は、「吾妻塚」または「ドウロクジン」(道陸神=道祖神か?)と呼ばれる直径約7mの円墳?上に建てられているらしい。この神社の祭神は日本武尊の后である弟橘比売命で、日本武尊が東征の折に印波の海(印旛沼)を渡る際、かつて東京湾で入水した弟橘姫を偲んで所縁の品をここに埋めたという伝承がある。

印旛沼の東の台地上に建設された成田ニュータウンは、古くから公津ヶ原と呼ばれたところで、「公津八十塚」と言われたように、古墳が多い場所として知られていた。「八十」というのは「多い」という意味で、成田ニュータウン造成以前には80基どころか、少なくとも110基以上の古墳があったとされている。現在は39基の古墳が公園や小学校校庭内などに保存されている。式内社「麻賀多神社」奥宮(2012年6月9日記事参照)に隣接する古墳は公津ヶ原古墳群39号墳とされ、初代印波国造・伊都許利命の墳墓であるとの伝承がある。


大和國古墳墓取調室さんのHPから(公津ヶ原古墳群)


写真1:「船塚古墳」(公津ヶ原8号墳)。北側から(前方部?)。


写真2:同上。南側から(後方部?)。確かに巨大な船のような形。


写真3:「天王塚古墳」(公津ヶ原21号墳)。北東側から。鳥居は「八坂神社」のもの。


写真4:同上。南東側から。こちらには「浅間神社」が祀られている。


写真5:同上。南西側から。括れがわかる。


写真6:「吾妻神社」本殿。円墳の上にあるらしいが、公津ヶ原古墳群のナンバーは振られていない。


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