藤島城址(ふじしまじょうし)。
場所:山形県鶴岡市藤島字古楯跡108(「八幡神社」の住所)。JR羽越線「藤島」駅前から山形県道339号線(添津藤島停車場線)を東へ約500m。駐車場あり。
「藤島城址」は築城時期不明の平城跡で、一説に、和銅5年(712年)に「出羽国」が創設されたときに当地に国府が置かれ、出羽国司の居館のあった場所であるという。その後も領主を変えながら存続し、土塁や水堀(藤島川を利用)を備えた城となっていたが、元和元年(1615年)、最上氏の改易に伴い廃城になったとされる。現在は鶴岡市の史跡に指定され、「八幡神社」(旧村社、祭神:應神天皇ほか)が鎮座している。
「出羽国」は、大和政権の東北地方への勢力拡大に伴い、和銅元年(708年)、「越後国」の北端に「出羽郡」を置き、前線基地として「出羽柵」を設置した。「出羽」は「いでは」と読み、「越後国」の出端という意味であった。和銅5年(712年)9月に「出羽国」に昇格し、翌年には「陸奥国」から置賜郡と最上郡を割譲された。出羽国府は出羽郡内に置かれたと思われるが、その位置は確認されていない。諸説あるが、最上川より南側で、おそらく赤川流域の鶴岡市あるいは酒田市付近とみられている。地名等から、JR「藤島」駅南側の鶴岡市藤島字「古郡」、あるいは北側の字「平形」付近が有力とされ、特に後者には「国分」・「堂の上」・「堂の下」という小字地名もあり、これが「国分寺」に関連があるのではないかともいわれてきた。こうしたことから、「平形」周辺一帯について昭和45年から53年まで7次にわたり広範囲に発掘調査が行われたが、奈良時代に遡る遺構・遺物は発見されなかった。掘立柱建物跡等は出土したが、9世紀後半~10世紀頃の集落跡で、寺院跡らしい遺構は確認されなかったという。
山形県鶴岡市観光連盟のHPから(藤島城祉)
写真1:「藤島城跡」水堀(南側から見る)
写真2:東側に「史跡藤島城址」の石碑と「八幡神社」の鳥居・社号標
写真3:「八幡神社」境内から入口側をみる。土塁がよくわかる。
写真4:「八幡神社」社殿
場所:山形県鶴岡市藤島字古楯跡108(「八幡神社」の住所)。JR羽越線「藤島」駅前から山形県道339号線(添津藤島停車場線)を東へ約500m。駐車場あり。
「藤島城址」は築城時期不明の平城跡で、一説に、和銅5年(712年)に「出羽国」が創設されたときに当地に国府が置かれ、出羽国司の居館のあった場所であるという。その後も領主を変えながら存続し、土塁や水堀(藤島川を利用)を備えた城となっていたが、元和元年(1615年)、最上氏の改易に伴い廃城になったとされる。現在は鶴岡市の史跡に指定され、「八幡神社」(旧村社、祭神:應神天皇ほか)が鎮座している。
「出羽国」は、大和政権の東北地方への勢力拡大に伴い、和銅元年(708年)、「越後国」の北端に「出羽郡」を置き、前線基地として「出羽柵」を設置した。「出羽」は「いでは」と読み、「越後国」の出端という意味であった。和銅5年(712年)9月に「出羽国」に昇格し、翌年には「陸奥国」から置賜郡と最上郡を割譲された。出羽国府は出羽郡内に置かれたと思われるが、その位置は確認されていない。諸説あるが、最上川より南側で、おそらく赤川流域の鶴岡市あるいは酒田市付近とみられている。地名等から、JR「藤島」駅南側の鶴岡市藤島字「古郡」、あるいは北側の字「平形」付近が有力とされ、特に後者には「国分」・「堂の上」・「堂の下」という小字地名もあり、これが「国分寺」に関連があるのではないかともいわれてきた。こうしたことから、「平形」周辺一帯について昭和45年から53年まで7次にわたり広範囲に発掘調査が行われたが、奈良時代に遡る遺構・遺物は発見されなかった。掘立柱建物跡等は出土したが、9世紀後半~10世紀頃の集落跡で、寺院跡らしい遺構は確認されなかったという。
山形県鶴岡市観光連盟のHPから(藤島城祉)
写真1:「藤島城跡」水堀(南側から見る)
写真2:東側に「史跡藤島城址」の石碑と「八幡神社」の鳥居・社号標
写真3:「八幡神社」境内から入口側をみる。土塁がよくわかる。
写真4:「八幡神社」社殿