神明社(しんめいしゃ)。通称:添川神明社(そえがわしんめいしゃ)。
場所:秋田県秋田市添川字古城廻り51。JR奥羽本線「秋田」駅東口から北へ向かい、秋田大学前を通って秋田県道15号線(秋田八郎潟線)を北上し、秋田自動車道の高架下を過ぎて約400mの「秋田東警察署旭川駐在所」横から鋭角的に北西に曲がって約200m。水路に沿った狭い道路を東に進むと参道の石段がある。駐車場なし。
当神社の創始は不明。近世には「杉生(すぎう)大明神」と呼ばれていたが、昭和3年に神明社、熊野神社等を合祀して村社となった、という。現在の主祭神は天照大神。
志賀剛氏の説で、当神社が式内社「副川神社」の古社地とされているとのことで、有名な玄松子さんも当神社に参拝されている。志賀剛著「式内社の研究 第十巻 東山道」(昭和61年12月)では、式内社「副川神社」の所在地を「南秋田郡内川村大字浦大町」(現・秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町)としながら、旭川流域の添川村(現・秋田市添川)にありとするのが妥当、としている。それは、単に「そえがわ」という地名が通じるということだけではなく、蝦夷の反乱により秋田城が焼き討ちにあった「元慶の乱」(元慶2年:878年)のとき、添川・覇別・助川の3村だけが律令政権側に付いたという「日本三代実録」の記事があり、その功により式内社が置かれたのだろうとしている。即ち、「副川神社」は、「古四王神社」(現・秋田市寺内)とともに「秋田城」の守護神であったとする(「古四王神社」は式外社だが。)。このとおり、「式内社の研究」では、当神社が「副川神社」の後身であるとはされていない。古代の「副川神社」が現・秋田市添川にあったとしているだけである。因みに、当神社の裏山の辺りには「古城廻窯遺跡」があり、ここで平安初期の「秋田城」の「十五葉細弁蓮華文軒丸瓦」などが生産されていたことが明らかになっている。
確かに「元慶の乱」の記事での「添川(添河)」は現・秋田市添川付近に比定されているけれども、「添川」という地名自体は他にもあり、当地のみに特定はできない。また、「延喜式神名帳」では、「副川神社」の鎮座地を「山本郡」としているが、「和名類聚抄」(承平年間:931~938年頃の成立)によれば「添川郷」は「秋田郡」内に所在する。このことについて、「式内社の研究」では、「延喜式神名帳」の誤記としているが、これはいただけない。なお、江戸時代の紀行家・菅江真澄も当神社を訪れ、「副川神社」と同じ「杉生の神」を祀っていると指摘しているが、この「杉生大明神」という神様がよくわからない。結局、現・秋田県大仙市に鎮座する「嶽六所神社」またはその里宮である「(神宮寺)八幡神社」が古社地であり、江戸時代に現・秋田県八郎潟町に移された「副川神社」が現存する式内社というのが通説となっている。
秋田県神社庁のHPから(神明社)
玄松子さんのHPから(添川神明社)
秋田市のHPから(添川地区古城廻窯跡)
写真1:「(添川)神明社」の白い鳥居(コンクリート製?)
写真2:社殿正面。木々に囲まれ、良い雰囲気。
写真3:社殿
写真4:参道横はグラウンドになっている。
場所:秋田県秋田市添川字古城廻り51。JR奥羽本線「秋田」駅東口から北へ向かい、秋田大学前を通って秋田県道15号線(秋田八郎潟線)を北上し、秋田自動車道の高架下を過ぎて約400mの「秋田東警察署旭川駐在所」横から鋭角的に北西に曲がって約200m。水路に沿った狭い道路を東に進むと参道の石段がある。駐車場なし。
当神社の創始は不明。近世には「杉生(すぎう)大明神」と呼ばれていたが、昭和3年に神明社、熊野神社等を合祀して村社となった、という。現在の主祭神は天照大神。
志賀剛氏の説で、当神社が式内社「副川神社」の古社地とされているとのことで、有名な玄松子さんも当神社に参拝されている。志賀剛著「式内社の研究 第十巻 東山道」(昭和61年12月)では、式内社「副川神社」の所在地を「南秋田郡内川村大字浦大町」(現・秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町)としながら、旭川流域の添川村(現・秋田市添川)にありとするのが妥当、としている。それは、単に「そえがわ」という地名が通じるということだけではなく、蝦夷の反乱により秋田城が焼き討ちにあった「元慶の乱」(元慶2年:878年)のとき、添川・覇別・助川の3村だけが律令政権側に付いたという「日本三代実録」の記事があり、その功により式内社が置かれたのだろうとしている。即ち、「副川神社」は、「古四王神社」(現・秋田市寺内)とともに「秋田城」の守護神であったとする(「古四王神社」は式外社だが。)。このとおり、「式内社の研究」では、当神社が「副川神社」の後身であるとはされていない。古代の「副川神社」が現・秋田市添川にあったとしているだけである。因みに、当神社の裏山の辺りには「古城廻窯遺跡」があり、ここで平安初期の「秋田城」の「十五葉細弁蓮華文軒丸瓦」などが生産されていたことが明らかになっている。
確かに「元慶の乱」の記事での「添川(添河)」は現・秋田市添川付近に比定されているけれども、「添川」という地名自体は他にもあり、当地のみに特定はできない。また、「延喜式神名帳」では、「副川神社」の鎮座地を「山本郡」としているが、「和名類聚抄」(承平年間:931~938年頃の成立)によれば「添川郷」は「秋田郡」内に所在する。このことについて、「式内社の研究」では、「延喜式神名帳」の誤記としているが、これはいただけない。なお、江戸時代の紀行家・菅江真澄も当神社を訪れ、「副川神社」と同じ「杉生の神」を祀っていると指摘しているが、この「杉生大明神」という神様がよくわからない。結局、現・秋田県大仙市に鎮座する「嶽六所神社」またはその里宮である「(神宮寺)八幡神社」が古社地であり、江戸時代に現・秋田県八郎潟町に移された「副川神社」が現存する式内社というのが通説となっている。
秋田県神社庁のHPから(神明社)
玄松子さんのHPから(添川神明社)
秋田市のHPから(添川地区古城廻窯跡)
写真1:「(添川)神明社」の白い鳥居(コンクリート製?)
写真2:社殿正面。木々に囲まれ、良い雰囲気。
写真3:社殿
写真4:参道横はグラウンドになっている。