黒坂命古墳(くろさかのみことこふん)。大塚古墳群第1号墳。弁天塚古墳。
場所:茨城県稲敷郡美浦村大塚90ほか。茨城県道120号線(上新田木原線)終点(国道125号線交点)から東に約2.4km。県道のバイパス側に案内板があるが、入口は旧道側にある。駐車場なし。
「黒坂命古墳(弁天塚古墳)」は、霞ヶ浦南岸にある10基(うち6基は湮滅)からなる大塚古墳群の1つ(1号墳)で、径53.4m、高さ11.8mという大型の円墳。弘化4年(1847年)、塚の中腹にあった稲荷社を塚上に遷社祭祀しようと整地した際に、箱式石棺が出土し、石棺の中には剣や甲冑、鏡等が見つかったという。江戸時代の国学者・色川三中(現・土浦市出身)は、「黒坂命墳墓考」にその様子を記すとともに、「常陸国風土記」に登場する「黒坂命」(クロサカ)の墳墓であろうとしている。「常陸国風土記」(「萬葉集注釈」逸文)によれば、「黒坂命が奥州の蝦夷を討伐に行って凱旋する途中、多珂郡の角枯山(現・日立市の黒前山)で病死した。黒坂命の棺を載せた葬礼の車が日高見国に至るまで、赤幡(旗)・青幡が翻り、葬礼の道を輝かせた。このことから、当時の人々が「幡垂る(しだる)国」と言ったのを、今は「信太(しだ)」の国と言っている。」(大意)とある。「黒坂命」は多氏系の武人で、「常陸国風土記」茨城郡の条では、「国巣」(くにす、くず。ヤマト政権に恭順しない先住民)を茨棘を使った計略で討ち滅ぼした人物とされている(「多氏」については「大生神社」(2017年12月9日記事)参照)。
平成17年に筑波大学考古学研究室が測量調査を行い、墳丘の北側に幅4mの溝があったことを確認したという。築造時期は、形態等から古墳時代中期前半頃(5世紀前半頃?)とされる。残念ながら、出土物は行方不明になっていて、色川三中の考証にも関わらず、「黒坂命」の墳墓との断定はできないということらしい。
写真1:「黒坂命古墳」。県道120号線(バイパス)にある案内板の方から見る。
写真2:旧道側にある上り口(「厳島神社」参道)
写真3:墳丘上にある石祠。向かって左が「稲荷神社」、右が「厳島神社」
写真4:「古墳記」石碑
写真5:墳丘上から北を見る。直ぐ下に霞ヶ浦。古代にはもっと水位が高かったと思われるので、殆ど水際にあったのかもしれない。
写真6:北西側から見る。
場所:茨城県稲敷郡美浦村大塚90ほか。茨城県道120号線(上新田木原線)終点(国道125号線交点)から東に約2.4km。県道のバイパス側に案内板があるが、入口は旧道側にある。駐車場なし。
「黒坂命古墳(弁天塚古墳)」は、霞ヶ浦南岸にある10基(うち6基は湮滅)からなる大塚古墳群の1つ(1号墳)で、径53.4m、高さ11.8mという大型の円墳。弘化4年(1847年)、塚の中腹にあった稲荷社を塚上に遷社祭祀しようと整地した際に、箱式石棺が出土し、石棺の中には剣や甲冑、鏡等が見つかったという。江戸時代の国学者・色川三中(現・土浦市出身)は、「黒坂命墳墓考」にその様子を記すとともに、「常陸国風土記」に登場する「黒坂命」(クロサカ)の墳墓であろうとしている。「常陸国風土記」(「萬葉集注釈」逸文)によれば、「黒坂命が奥州の蝦夷を討伐に行って凱旋する途中、多珂郡の角枯山(現・日立市の黒前山)で病死した。黒坂命の棺を載せた葬礼の車が日高見国に至るまで、赤幡(旗)・青幡が翻り、葬礼の道を輝かせた。このことから、当時の人々が「幡垂る(しだる)国」と言ったのを、今は「信太(しだ)」の国と言っている。」(大意)とある。「黒坂命」は多氏系の武人で、「常陸国風土記」茨城郡の条では、「国巣」(くにす、くず。ヤマト政権に恭順しない先住民)を茨棘を使った計略で討ち滅ぼした人物とされている(「多氏」については「大生神社」(2017年12月9日記事)参照)。
平成17年に筑波大学考古学研究室が測量調査を行い、墳丘の北側に幅4mの溝があったことを確認したという。築造時期は、形態等から古墳時代中期前半頃(5世紀前半頃?)とされる。残念ながら、出土物は行方不明になっていて、色川三中の考証にも関わらず、「黒坂命」の墳墓との断定はできないということらしい。
写真1:「黒坂命古墳」。県道120号線(バイパス)にある案内板の方から見る。
写真2:旧道側にある上り口(「厳島神社」参道)
写真3:墳丘上にある石祠。向かって左が「稲荷神社」、右が「厳島神社」
写真4:「古墳記」石碑
写真5:墳丘上から北を見る。直ぐ下に霞ヶ浦。古代にはもっと水位が高かったと思われるので、殆ど水際にあったのかもしれない。
写真6:北西側から見る。