六所皇大神宮霊跡地(ろくしょこうたいじんぐうれいせきち)。通称:六所神社跡。
場所:茨城県つくば市臼井2047。茨城県道14号線(筑西つくば線)と国道125号線・茨城県道138号線(石岡つくば線)の「内町下」交差点から県道14号線を北へ約1.7km、ガソリンスタンド「エネオス大貫SS(つくばね石油)」の角を右折(東へ)、約3.3km道なりに進んで、突き当りを左折(西へ)、約100mで「第2駐車場」。そこから左手の方の道路を約100m進んだところ。
「六所皇大神宮」(六所神社)は、社伝によれば、神武天皇4年(紀元前657年?)に筑波地方の総社として創建されたという。「伊勢神宮」の分社ということで「皇大神宮」と称するが、「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)の里宮であるともされる。「六所」というのは6柱の神のことをいうが、ここでは、それを「筑波山神社」の2座(伊弉諾尊・伊弉冊尊)とその摂社の4座(天照大御神・素盞鳴尊・月読尊・蛭子命)に当てる。因みに、「六所」というのは「録所」(管内の神社を登録・統括する役所・役職)から転じたものという説があり、全国各地の「総社」にも「六所神社」というものがある(例えば下総国総社「六所神社」(2013年1月19日記事))。第13代・成務天皇の時代(5世紀頃?)に忍凝見命(オシコリ)の孫・阿閑色命(アヘシコ)が筑波国造に任じられたとき、祭政一致の政務に基づき奉仕したとされる。延暦20年(801年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討の帰路、当地に馬具・宝剣・神鏡を納めたといい、明治3年に老杉が倒れて鳥居が破壊された際に銅鏡が出土し、その銅鏡に「石鳥居 征夷大将軍坂上田村麻呂 建立之」の銘があったという。「筑波山」の登山ルートはいくつかあるが、元々は当地から「夫女ヶ石」(前項)を通って山頂に向かうのがメイン・ルートであったとされ、当地も「歌垣」の場所だったという説もある。いずれにしても「筑波山神社」との結び付きが強く、現在も行われている「筑波山神社」の例大祭「御座替祭(おざがわりさい)」での神輿渡御は「一の鳥居」(「筑波山神社」(2020年9月12日記事の写真1)までとなっているが、明治43年以前は当地までの渡御であったという(「御座替祭」について詳細は省くが、民俗学でいう「春秋去来の伝承」で、春に山の神が下って田の神となり、秋に再び山に戻るという信仰とされる。)。同年に「六所神社」は廃社となり、神霊は「蚕影神社」(現・茨城県つくば市神郡)に移された。その後、大正始め、新興宗教団体・奣照修徳会(おうしょうしゅうとくかい)の初代会長・高木福太郎が荒廃した「六所神社」跡地の復興を提唱し、整備に努めたという。
さて、「筑波山神社」と同様、「筑波山」そのものの信仰が創祀とすれば、一体とされる「六所神社」の創祀も古代より前に遡ってよいのかもしれないが、神社としての創建は古くて平安時代だろう。史料的には、近世の「六所神社」の神宝目録に建久6年(1195年)勧請の銘がある「聖観音の御正体」の記載により、遅くとも12世紀には存在していたというのが最古らしい。上記の坂上田村麻呂の銅鏡が本物であるとすると、次のようなことも考えられるだろうか。「常陸国風土記」には既に「筑波山神社」の存在が示されており、また「飯名神社」(次項予定)もあったとすれば、その「飯名神社」は「筑波山神社」の里宮だったのではないか。それが、延暦年間(782~806年)の初め頃?に僧・徳一が「筑波山」の中腹に「筑波山寺」(現・「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事))を創建すると、仏教勢力が「筑波山」の祭祀を掌握、これに対抗して神道側が「六所神社」を創建した。坂上田村麻呂は、創建されたばかりの「六所神社」に参拝して「筑波山」の神に凱旋報告した・・・。ただし、坂上田村麻呂の蝦夷征討といえば、常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)との関係が深い(例えば、同神宮の社宝に「悪路王の首」(木製)というものがある。悪路王は蝦夷の大将・阿弖流為(あてるい)のことであるという。)。道順からいっても、奥羽地方に向かうには「鹿島神宮」から太平洋沿いに進軍したのではないかと考えると、筑波山の方に来るのは遠回りになる。あるいは、本人ではなく、代参だったかもしれないが。さて、どうだろうか。
奣照修徳会のHPから(六所)
写真1:「六所皇大神宮霊跡地」東側の入口(女坂)の石碑。こちらに「第1駐車場」があるが、訪問時には廃車? が一杯置かれていて駐車できなかった。
写真2:境内入口の石段と鳥居
写真3:石柱と由来碑。この石柱が円柱なのは、元は鳥居の柱だったからで、明治3年に鳥居が倒壊した際に、この柱の下から「坂上田村麻呂」銘のある銅鏡が出土したとされる。
写真4:「天照大神 御腰掛之石」
写真5:社殿跡地
写真6:社殿跡地の中央に立つ「六祖神霊之碑」
写真7:同上、向かって右側「高木奣照大人尊之碑」
写真8:同上、向かって左側「六所大神宮跡之碑」
写真9:「六所要石」。社殿跡地の背後に(埋められた?)巨石。
写真11:「六所の滝」
写真12:社殿跡地から更に山道を登っていくと、途中にある巨石。いかにも磐座のようだが、祭祀が行われていたか、不明。なお、この先にも山道が続いていて、「夫女ヶ石」(前項)の下(南)辺りに出る。
場所:茨城県つくば市臼井2047。茨城県道14号線(筑西つくば線)と国道125号線・茨城県道138号線(石岡つくば線)の「内町下」交差点から県道14号線を北へ約1.7km、ガソリンスタンド「エネオス大貫SS(つくばね石油)」の角を右折(東へ)、約3.3km道なりに進んで、突き当りを左折(西へ)、約100mで「第2駐車場」。そこから左手の方の道路を約100m進んだところ。
「六所皇大神宮」(六所神社)は、社伝によれば、神武天皇4年(紀元前657年?)に筑波地方の総社として創建されたという。「伊勢神宮」の分社ということで「皇大神宮」と称するが、「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)の里宮であるともされる。「六所」というのは6柱の神のことをいうが、ここでは、それを「筑波山神社」の2座(伊弉諾尊・伊弉冊尊)とその摂社の4座(天照大御神・素盞鳴尊・月読尊・蛭子命)に当てる。因みに、「六所」というのは「録所」(管内の神社を登録・統括する役所・役職)から転じたものという説があり、全国各地の「総社」にも「六所神社」というものがある(例えば下総国総社「六所神社」(2013年1月19日記事))。第13代・成務天皇の時代(5世紀頃?)に忍凝見命(オシコリ)の孫・阿閑色命(アヘシコ)が筑波国造に任じられたとき、祭政一致の政務に基づき奉仕したとされる。延暦20年(801年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討の帰路、当地に馬具・宝剣・神鏡を納めたといい、明治3年に老杉が倒れて鳥居が破壊された際に銅鏡が出土し、その銅鏡に「石鳥居 征夷大将軍坂上田村麻呂 建立之」の銘があったという。「筑波山」の登山ルートはいくつかあるが、元々は当地から「夫女ヶ石」(前項)を通って山頂に向かうのがメイン・ルートであったとされ、当地も「歌垣」の場所だったという説もある。いずれにしても「筑波山神社」との結び付きが強く、現在も行われている「筑波山神社」の例大祭「御座替祭(おざがわりさい)」での神輿渡御は「一の鳥居」(「筑波山神社」(2020年9月12日記事の写真1)までとなっているが、明治43年以前は当地までの渡御であったという(「御座替祭」について詳細は省くが、民俗学でいう「春秋去来の伝承」で、春に山の神が下って田の神となり、秋に再び山に戻るという信仰とされる。)。同年に「六所神社」は廃社となり、神霊は「蚕影神社」(現・茨城県つくば市神郡)に移された。その後、大正始め、新興宗教団体・奣照修徳会(おうしょうしゅうとくかい)の初代会長・高木福太郎が荒廃した「六所神社」跡地の復興を提唱し、整備に努めたという。
さて、「筑波山神社」と同様、「筑波山」そのものの信仰が創祀とすれば、一体とされる「六所神社」の創祀も古代より前に遡ってよいのかもしれないが、神社としての創建は古くて平安時代だろう。史料的には、近世の「六所神社」の神宝目録に建久6年(1195年)勧請の銘がある「聖観音の御正体」の記載により、遅くとも12世紀には存在していたというのが最古らしい。上記の坂上田村麻呂の銅鏡が本物であるとすると、次のようなことも考えられるだろうか。「常陸国風土記」には既に「筑波山神社」の存在が示されており、また「飯名神社」(次項予定)もあったとすれば、その「飯名神社」は「筑波山神社」の里宮だったのではないか。それが、延暦年間(782~806年)の初め頃?に僧・徳一が「筑波山」の中腹に「筑波山寺」(現・「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事))を創建すると、仏教勢力が「筑波山」の祭祀を掌握、これに対抗して神道側が「六所神社」を創建した。坂上田村麻呂は、創建されたばかりの「六所神社」に参拝して「筑波山」の神に凱旋報告した・・・。ただし、坂上田村麻呂の蝦夷征討といえば、常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)との関係が深い(例えば、同神宮の社宝に「悪路王の首」(木製)というものがある。悪路王は蝦夷の大将・阿弖流為(あてるい)のことであるという。)。道順からいっても、奥羽地方に向かうには「鹿島神宮」から太平洋沿いに進軍したのではないかと考えると、筑波山の方に来るのは遠回りになる。あるいは、本人ではなく、代参だったかもしれないが。さて、どうだろうか。
奣照修徳会のHPから(六所)
写真1:「六所皇大神宮霊跡地」東側の入口(女坂)の石碑。こちらに「第1駐車場」があるが、訪問時には廃車? が一杯置かれていて駐車できなかった。
写真2:境内入口の石段と鳥居
写真3:石柱と由来碑。この石柱が円柱なのは、元は鳥居の柱だったからで、明治3年に鳥居が倒壊した際に、この柱の下から「坂上田村麻呂」銘のある銅鏡が出土したとされる。
写真4:「天照大神 御腰掛之石」
写真5:社殿跡地
写真6:社殿跡地の中央に立つ「六祖神霊之碑」
写真7:同上、向かって右側「高木奣照大人尊之碑」
写真8:同上、向かって左側「六所大神宮跡之碑」
写真9:「六所要石」。社殿跡地の背後に(埋められた?)巨石。
写真11:「六所の滝」
写真12:社殿跡地から更に山道を登っていくと、途中にある巨石。いかにも磐座のようだが、祭祀が行われていたか、不明。なお、この先にも山道が続いていて、「夫女ヶ石」(前項)の下(南)辺りに出る。