東睿山 金剛寿院 千妙寺(とうえいさん こんごうじゅいん せんみょうじ)。
場所:茨城県筑西市黒子214。茨城県道357号線(谷和原筑西線)と同54号線(明野間々田線)の「黒子」交差点から、357号線を北へ約130mのところ(丁字路)を右折(東へ)、約80mで駐車場。
寺伝によれば、天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)の関東弘教の命を受け、直弟子である円仁(慈覚大師)が最澄作の釈迦如来像を背負って巡錫していた折、現・茨城県筑西市赤浜付近に至ると、釈迦如来像が動かなくなった。そこで、その地に、承和元年(834年)、第53代・淳和天皇の勅許により「承和寺」を創建した。寺号は、創建時の年号を採ったものである。貞観元年(859年)、第56代・清和天皇の勅願による祈祷が行われたとき、「大恩寺」に改められた。その後、「平将門の乱」による戦火で本堂など全てが焼失した。南北朝時代の観応2年(1351年)、崇光天皇(北朝第3代)の勅により、第16世住職・亮守が現在地に移転して再興、中興開山とされる。亮守は千部の妙典(妙法蓮華経)を小石に書写し、浄域の中心に埋納したことから、寺号を「千妙寺」と称するようになった。また、亮守は、台密三昧流の法流を汲んでいたことから、三昧流の伝法灌頂道場として隆盛した。盛時には、末寺・門徒寺は7ヵ国に600余ヵ寺を数えたとされる。伝法灌頂道場は、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」(現・滋賀県大津市)と当寺院にだけに伝えられる貴重な宗教行事といい、山号の「東睿山」というのは東の「比叡山」の意味で、慶長18年(1613年)、第108代・後水尾天皇の勅号により授けられたとのこと。本尊は釈迦如来。
なお、寺伝では古代の「承和寺」が移転したものとされるが、疑問とする説も強い(前項「赤浜神社」参照)。「承和寺」自体の存在を疑うことはさて置くとしても、「平将門の乱」のとき焼失した(承平5年:935年)後、観応2年(1351年)に当地に移転・再興されるまでの約400年間、どうなっていたのか。また、当寺院の住職は、初代・円仁(天台座主第三世)~第二代・安慧(同第四世)~第三代・長意(同第九世)・・・などとなっているが、円仁は下野国壬生(現・栃木県壬生町)の出身で、関東~東北を巡錫したとされるので、あるいは創建に関わったかもしれないものの、その他の住職も天台宗総本山のトップばかり、というのは考えられない。古代、現・茨城県西部に天台宗が進出して盛んに布教活動したことは認められるとしても、当寺院と「承和寺」とは別のものと考えた方がよいように思われる。
蛇足:当寺院にまつわる次のような伝説がある。昔、「千妙寺」に「黒童子」と呼ばれる小僧がいた。色黒の上、いつも黒い着物を着ていたからだが、何年たっても16~17歳くらいのまま、年を取らず、雑用をこなしていた。ある日、「黒童子」が水汲みに行ったまま、しばらく戻ってこなかったので、住職がきつく叱ると、「天竺(インド)の川まで汲みに行っていましたので…」とうっかり答えた。 実は、「黒童子」は護法天の化身で、130年間、当寺院の7代の住職に仕えていたのだという。そして、境内の杉の巨木を足場にして、天に昇って行ってしまった。それ以来、この杉は「護法杉」と呼ばれるようになったという( 樹齢600年以上といわれた「護法杉」は落雷の後に枯死し、今は残っていないとのこと。)。
蛇足の蛇足:上記の伝説は子供向けの「昔話」で、もう少し辛口なものは、次のようになっている。「黒童子」は中興開山・亮守に寺院移転の適地を教えるなど建立に協力した。その後も歴代の住職に仕えたが、七代後の住職・亮禅には水汲みが遅いと罵られた。「黒童子」は、「この地の水は汚れていて仏前には供えられないから、ガンジス川の源流まで汲みに行ったのだ。神通力の弱いお前にはわかるまい。」と言い返した。そして、大杉から天に昇ろうとしたところ、怒った亮禅が念じて「黒童子」の昇天を妨げた。これを恨んだ「黒童子」は何処ともなく姿を消した、という。亮禅は「神通力が弱い」と言われながらも、護法天を昇天させないほどの通力があった一方、時は室町時代末期で下剋上の世の中、仏教界も堕落・腐敗していったことを風刺したものとされる。(参考文献:渡辺荘仁「千妙寺」(筑波書林、1980年))
千妙寺のHP
写真1:「千妙寺」山門
写真2:「三昧流灌頂」石碑
写真3:釈迦堂(総本堂)
写真4:同上の彫刻
写真5:「正一位代続稲荷大明神」。由緒等不明。
写真6:客殿
写真7:庭園
写真8:国旗掲揚台? 「鎮護国家」というところが天台宗寺院らしい。
場所:茨城県筑西市黒子214。茨城県道357号線(谷和原筑西線)と同54号線(明野間々田線)の「黒子」交差点から、357号線を北へ約130mのところ(丁字路)を右折(東へ)、約80mで駐車場。
寺伝によれば、天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)の関東弘教の命を受け、直弟子である円仁(慈覚大師)が最澄作の釈迦如来像を背負って巡錫していた折、現・茨城県筑西市赤浜付近に至ると、釈迦如来像が動かなくなった。そこで、その地に、承和元年(834年)、第53代・淳和天皇の勅許により「承和寺」を創建した。寺号は、創建時の年号を採ったものである。貞観元年(859年)、第56代・清和天皇の勅願による祈祷が行われたとき、「大恩寺」に改められた。その後、「平将門の乱」による戦火で本堂など全てが焼失した。南北朝時代の観応2年(1351年)、崇光天皇(北朝第3代)の勅により、第16世住職・亮守が現在地に移転して再興、中興開山とされる。亮守は千部の妙典(妙法蓮華経)を小石に書写し、浄域の中心に埋納したことから、寺号を「千妙寺」と称するようになった。また、亮守は、台密三昧流の法流を汲んでいたことから、三昧流の伝法灌頂道場として隆盛した。盛時には、末寺・門徒寺は7ヵ国に600余ヵ寺を数えたとされる。伝法灌頂道場は、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」(現・滋賀県大津市)と当寺院にだけに伝えられる貴重な宗教行事といい、山号の「東睿山」というのは東の「比叡山」の意味で、慶長18年(1613年)、第108代・後水尾天皇の勅号により授けられたとのこと。本尊は釈迦如来。
なお、寺伝では古代の「承和寺」が移転したものとされるが、疑問とする説も強い(前項「赤浜神社」参照)。「承和寺」自体の存在を疑うことはさて置くとしても、「平将門の乱」のとき焼失した(承平5年:935年)後、観応2年(1351年)に当地に移転・再興されるまでの約400年間、どうなっていたのか。また、当寺院の住職は、初代・円仁(天台座主第三世)~第二代・安慧(同第四世)~第三代・長意(同第九世)・・・などとなっているが、円仁は下野国壬生(現・栃木県壬生町)の出身で、関東~東北を巡錫したとされるので、あるいは創建に関わったかもしれないものの、その他の住職も天台宗総本山のトップばかり、というのは考えられない。古代、現・茨城県西部に天台宗が進出して盛んに布教活動したことは認められるとしても、当寺院と「承和寺」とは別のものと考えた方がよいように思われる。
蛇足:当寺院にまつわる次のような伝説がある。昔、「千妙寺」に「黒童子」と呼ばれる小僧がいた。色黒の上、いつも黒い着物を着ていたからだが、何年たっても16~17歳くらいのまま、年を取らず、雑用をこなしていた。ある日、「黒童子」が水汲みに行ったまま、しばらく戻ってこなかったので、住職がきつく叱ると、「天竺(インド)の川まで汲みに行っていましたので…」とうっかり答えた。 実は、「黒童子」は護法天の化身で、130年間、当寺院の7代の住職に仕えていたのだという。そして、境内の杉の巨木を足場にして、天に昇って行ってしまった。それ以来、この杉は「護法杉」と呼ばれるようになったという( 樹齢600年以上といわれた「護法杉」は落雷の後に枯死し、今は残っていないとのこと。)。
蛇足の蛇足:上記の伝説は子供向けの「昔話」で、もう少し辛口なものは、次のようになっている。「黒童子」は中興開山・亮守に寺院移転の適地を教えるなど建立に協力した。その後も歴代の住職に仕えたが、七代後の住職・亮禅には水汲みが遅いと罵られた。「黒童子」は、「この地の水は汚れていて仏前には供えられないから、ガンジス川の源流まで汲みに行ったのだ。神通力の弱いお前にはわかるまい。」と言い返した。そして、大杉から天に昇ろうとしたところ、怒った亮禅が念じて「黒童子」の昇天を妨げた。これを恨んだ「黒童子」は何処ともなく姿を消した、という。亮禅は「神通力が弱い」と言われながらも、護法天を昇天させないほどの通力があった一方、時は室町時代末期で下剋上の世の中、仏教界も堕落・腐敗していったことを風刺したものとされる。(参考文献:渡辺荘仁「千妙寺」(筑波書林、1980年))
千妙寺のHP
写真1:「千妙寺」山門
写真2:「三昧流灌頂」石碑
写真3:釈迦堂(総本堂)
写真4:同上の彫刻
写真5:「正一位代続稲荷大明神」。由緒等不明。
写真6:客殿
写真7:庭園
写真8:国旗掲揚台? 「鎮護国家」というところが天台宗寺院らしい。