赤浜神社(あかはまじんじゃ)。通称:山王さま。
場所:茨城県筑西市赤浜525。茨城県道131号線(下妻真壁線)沿いのコンビニ「セブンイレブン明野中上野店」のところから同132号線(赤浜上大島線)に入り、西へ約950mのガソリンスタンド「エネオス赤浜SS」前を右折(南へ)、約450m。カーヴ・ミラーのあるところを左折(東へ)して約60mで鳥居前だが、農道のような道で、駐車場もないので、手前の墓地付近で自動車は置いてきた方が良い。
社伝によれば、延喜5年(905年)、天台宗「承和寺」(現在の「東睿山 金剛寿院 千妙寺」。次項予定)第3代住職・長意が守護社として近江国式内社(名神大)「日吉大社」(現・滋賀県大津市)を勧請して創建した。当時、「承和寺」は当神社の西側にあり、地図上では「東叡山承和寺跡」となっているが、旧・明野町のときには鎌倉時代の館跡として「堀ノ内遺跡」と称されていた。この「承和寺跡」または「堀ノ内遺跡」には謎があるが(後述)、当地が「将門記」冒頭の所謂「野本合戦場」付近であり、承平5年(935年)、将門が敵方の待ち伏せに遭ったものの、反撃し、その際の兵火で「承和寺」などが焼失したとされる。その後、「承和寺」は現在の筑西市黒子に移転・再興されることになるのだが、なぜか当神社は移転せずに残ったということになる。なお、「将門記」には「承和寺」のことは触れられておらず、「山王は煙に交わりて巌の後ろに隠れ、人の宅は灰の如くにして風の前に散りぬ」(読み下し文)とあって、「山王社」が焼失したことが記されている。この「山王社」が当神社のことであるとされ、かつては「山王二十一社権現」と呼ばれていたともいう(江戸時代に「山王二十一社権現」という棟札が境内から出土したとされるが、これは同時代の捏造品らしい。)。また、伝承であるが、「野本合戦」での戦没者を集めて当神社の境内に埋めたという土塔があったという。その後、現在までの経緯は不明だが、近世は「山王権現」(または「日吉神社」)で、明治時代になって稲荷神社を合祀して「赤浜神社」と改称したとのこと。現在の祭神は大己貴命ほか。
さて、「承和寺跡」または「堀ノ内遺跡」であるが、当地に「承和寺」があったというのは伝承だけで、古記録などはない。東西・南北ともに約180mの正方形に近い地形で、周囲を取り囲む堀跡が残っている(このため、通称「百間濠」ともいう。)が、古代寺院跡によくある古瓦片が全く見つかっていない。「将門記」の「野本」という地名は遺称地がなく、当地がそれに当たるというのも、明確な根拠はない。「明野町史」(昭和60年)では、「かかる寺社(注:承和寺と日吉山王社)の10世紀での存在に肯定的になるだけの条件を完備し得ているとはいえない」(注は当ブログ管理人)と随分回りくどい書きぶりだが、全体的にかなり否定的な印象である。一方、中世の城館としての「堀ノ内遺跡」(通称:「赤浜堀ノ内館」)は、平安時代末に「承和寺」が移転した後に、鎌倉時代の有力武士が城館を築いた(あるいは、「承和寺」とは無関係に城館を建てた)ということもあり得るのだが、これだけの規模にもかかわらず、城館の主の名が全く伝わっておらず、殆ど使われないまま放棄されたらしいということもあり、不思議な場所となっている。
因みに、古代には現・茨城県下妻市比毛付近で鬼怒川と小貝川が合流しており、運ばれた土砂によって小貝川が堰き止められて、筑波山の西側に大きな湖沼が形成されていた。これを、「萬葉集」では「鳥羽の淡海(とばのおうみ)」、「常陸国風土記」では「騰波江(とばのえ)」と呼んでいる。その後、鬼怒川の流路が南に変わって水位が下がり、江戸時代には新田開発のために干拓されて、殆どが水田になったとされる。現在では、関東鉄道常総線「騰波ノ江」駅にその名を残しているのみである(昭和29年までは「騰波ノ江村」が存在した。)。古代の当地は「騰波ノ江」に浮かぶ島のような台地の南端にあったらしく、「赤浜」という地名の「浜」はこれを示すもののようである。
写真1:「赤浜神社」鳥居
写真2:境内の石仏や石塔
写真3:同、「十七夜供養塔」。旧暦15日の夜を「十五夜」と言って満月になることが多いが、多少ずれることもある。これは「十七夜」の月待ちの記念塔で、宗教行事というよりは民間信仰、もっと言えば、月見の宴会ということもあったようだ。
写真4:社殿。神額は「赤濱神社」
写真5:「赤浜神社」の西側にある「東叡山承和寺跡」(場所:筑西市中上野字堀の内1858-1外。この遺跡部分だけが、赤浜の中にある中上野の飛び地)。北東角から南側をみる。堀の跡が残っている。
写真6:同上、北側中央から南側をみる。
写真7:同上、北西角から東側をみる。
写真8:万葉歌碑。高橋虫麻呂の歌の一部「新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺に 登りて見れば」。(場所:下妻市比毛の「糸繰川排水機場」前の「寿久橋」中央)。この付近で、鬼怒川と小貝川が合流していたらしい。「赤浜神社」の南西、約4km(直線距離)。
場所:茨城県筑西市赤浜525。茨城県道131号線(下妻真壁線)沿いのコンビニ「セブンイレブン明野中上野店」のところから同132号線(赤浜上大島線)に入り、西へ約950mのガソリンスタンド「エネオス赤浜SS」前を右折(南へ)、約450m。カーヴ・ミラーのあるところを左折(東へ)して約60mで鳥居前だが、農道のような道で、駐車場もないので、手前の墓地付近で自動車は置いてきた方が良い。
社伝によれば、延喜5年(905年)、天台宗「承和寺」(現在の「東睿山 金剛寿院 千妙寺」。次項予定)第3代住職・長意が守護社として近江国式内社(名神大)「日吉大社」(現・滋賀県大津市)を勧請して創建した。当時、「承和寺」は当神社の西側にあり、地図上では「東叡山承和寺跡」となっているが、旧・明野町のときには鎌倉時代の館跡として「堀ノ内遺跡」と称されていた。この「承和寺跡」または「堀ノ内遺跡」には謎があるが(後述)、当地が「将門記」冒頭の所謂「野本合戦場」付近であり、承平5年(935年)、将門が敵方の待ち伏せに遭ったものの、反撃し、その際の兵火で「承和寺」などが焼失したとされる。その後、「承和寺」は現在の筑西市黒子に移転・再興されることになるのだが、なぜか当神社は移転せずに残ったということになる。なお、「将門記」には「承和寺」のことは触れられておらず、「山王は煙に交わりて巌の後ろに隠れ、人の宅は灰の如くにして風の前に散りぬ」(読み下し文)とあって、「山王社」が焼失したことが記されている。この「山王社」が当神社のことであるとされ、かつては「山王二十一社権現」と呼ばれていたともいう(江戸時代に「山王二十一社権現」という棟札が境内から出土したとされるが、これは同時代の捏造品らしい。)。また、伝承であるが、「野本合戦」での戦没者を集めて当神社の境内に埋めたという土塔があったという。その後、現在までの経緯は不明だが、近世は「山王権現」(または「日吉神社」)で、明治時代になって稲荷神社を合祀して「赤浜神社」と改称したとのこと。現在の祭神は大己貴命ほか。
さて、「承和寺跡」または「堀ノ内遺跡」であるが、当地に「承和寺」があったというのは伝承だけで、古記録などはない。東西・南北ともに約180mの正方形に近い地形で、周囲を取り囲む堀跡が残っている(このため、通称「百間濠」ともいう。)が、古代寺院跡によくある古瓦片が全く見つかっていない。「将門記」の「野本」という地名は遺称地がなく、当地がそれに当たるというのも、明確な根拠はない。「明野町史」(昭和60年)では、「かかる寺社(注:承和寺と日吉山王社)の10世紀での存在に肯定的になるだけの条件を完備し得ているとはいえない」(注は当ブログ管理人)と随分回りくどい書きぶりだが、全体的にかなり否定的な印象である。一方、中世の城館としての「堀ノ内遺跡」(通称:「赤浜堀ノ内館」)は、平安時代末に「承和寺」が移転した後に、鎌倉時代の有力武士が城館を築いた(あるいは、「承和寺」とは無関係に城館を建てた)ということもあり得るのだが、これだけの規模にもかかわらず、城館の主の名が全く伝わっておらず、殆ど使われないまま放棄されたらしいということもあり、不思議な場所となっている。
因みに、古代には現・茨城県下妻市比毛付近で鬼怒川と小貝川が合流しており、運ばれた土砂によって小貝川が堰き止められて、筑波山の西側に大きな湖沼が形成されていた。これを、「萬葉集」では「鳥羽の淡海(とばのおうみ)」、「常陸国風土記」では「騰波江(とばのえ)」と呼んでいる。その後、鬼怒川の流路が南に変わって水位が下がり、江戸時代には新田開発のために干拓されて、殆どが水田になったとされる。現在では、関東鉄道常総線「騰波ノ江」駅にその名を残しているのみである(昭和29年までは「騰波ノ江村」が存在した。)。古代の当地は「騰波ノ江」に浮かぶ島のような台地の南端にあったらしく、「赤浜」という地名の「浜」はこれを示すもののようである。
写真1:「赤浜神社」鳥居
写真2:境内の石仏や石塔
写真3:同、「十七夜供養塔」。旧暦15日の夜を「十五夜」と言って満月になることが多いが、多少ずれることもある。これは「十七夜」の月待ちの記念塔で、宗教行事というよりは民間信仰、もっと言えば、月見の宴会ということもあったようだ。
写真4:社殿。神額は「赤濱神社」
写真5:「赤浜神社」の西側にある「東叡山承和寺跡」(場所:筑西市中上野字堀の内1858-1外。この遺跡部分だけが、赤浜の中にある中上野の飛び地)。北東角から南側をみる。堀の跡が残っている。
写真6:同上、北側中央から南側をみる。
写真7:同上、北西角から東側をみる。
写真8:万葉歌碑。高橋虫麻呂の歌の一部「新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺に 登りて見れば」。(場所:下妻市比毛の「糸繰川排水機場」前の「寿久橋」中央)。この付近で、鬼怒川と小貝川が合流していたらしい。「赤浜神社」の南西、約4km(直線距離)。