宝性院 歩崎山 長禅寺(ほうしょういん あゆみざきさん ちょうぜんじ)。通称:歩崎観音。
場所:茨城県かすみがうら市坂924-3。国道354号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の交差点(コンビニ「ファミリーマート「かすみがうら田伏店」がある。)から県道を南に約2.2km進み、「帆引き船展示施設」・「かすみがうら市歴史博物館」の北東側の道路に入り(左折)、東へ約290m進むと「歩崎観音北参道」という案内看板があり、その近くに「真如苑専用駐車場」がある。こちらは、駐車場から少し下って本堂の裏手から入ることになる。表参道へは、「帆引き船展示施設」等の南西側の道路を南東へ約400m進むと「歩崎公園」があり、その駐車場に車を止めて、北東へ約350m進むと、急な石段がある(健脚向き)。
寺伝によれば、天平年間(729~749年)に行基菩薩が自ら彫った十一面観世音菩薩立像を旅の僧に与え、その僧が当地に安置したのが創建とされる。なお、この観音像は筑波山麓から湧出したので「小筑波」ともいう、ともされるが、その趣旨はよくわからない。筑波山には真言宗豊山派「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事)があるので、その所縁かもしれない。当地は、霞ヶ浦に張り出した出島半島の北側の入江である「高浜入り」と西側の入江である「土浦入り」とが1つになる「三叉沖(みつまたおき)」に臨んだ景勝地で、茨城県指定名勝地の第1号となっている。平安時代後期、八幡太郎こと源義家が奥州征伐の帰途、(霞ヶ浦の対岸から)遥か水上に山が突出して見えたので、これを「霞ヶ関」と号した、という。天治年間(1124~1126年)、沖で難破しそうになった船を、この観音が灯りを持って水上を歩いて渡り、助けたとの伝説がある。この故事により「歩崎観音」と呼ばれるようになり、特に霞ヶ浦での漁業や水上交通関係者から信仰された。また、寿永年間(1182~1185年)には、身籠った竜女が「歩崎観音」に祈願したところ、無事安産できたので、「金の機(はた)」(黄金造りの機織機)を奉納したともいう。このことから、安産祈願にも御利益があるとされる。「長禅寺」は「歩崎観音」の別当として、文明7年(1475年)に僧・良俊が開山し、江戸時代には土浦藩から庇護されて常夜灯が寄進されたりしたが、次第に衰退し、元々檀徒がいなかったこともあり、昭和初期には無住の寺院となった。その後も荒廃が進み、太平洋戦争時の空襲の爆風のため本堂が傾き、仁王像も倒れたままとなっていたところ、真言宗から独立した新興宗教法人・真如苑(真澄寺)が村人の協力を得て昭和23年頃から再建に努めた。現在の宗派は真如苑で、本尊は十一面観世音菩薩。なお、この観音像は秘仏として33年ごとの開帳だったが、2012年から毎年8月16日に開帳されるようになったという。長く秘仏とされていたため調査が行われず、観音像の製作年代等は不明で、特に文化財等の指定はなされていない。
写真1:「長禅寺」山門(仁王門)。
写真2:本堂(観音堂)
写真3:本堂は丸太で支えられている。
写真4:境内の「金毘羅神社」
写真5:「茨城百景 歩崎の眺望」石碑。傍らの石段を上ると、常夜灯と展望台がある。
写真6:展望台から見た霞ヶ浦
場所:茨城県かすみがうら市坂924-3。国道354号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の交差点(コンビニ「ファミリーマート「かすみがうら田伏店」がある。)から県道を南に約2.2km進み、「帆引き船展示施設」・「かすみがうら市歴史博物館」の北東側の道路に入り(左折)、東へ約290m進むと「歩崎観音北参道」という案内看板があり、その近くに「真如苑専用駐車場」がある。こちらは、駐車場から少し下って本堂の裏手から入ることになる。表参道へは、「帆引き船展示施設」等の南西側の道路を南東へ約400m進むと「歩崎公園」があり、その駐車場に車を止めて、北東へ約350m進むと、急な石段がある(健脚向き)。
寺伝によれば、天平年間(729~749年)に行基菩薩が自ら彫った十一面観世音菩薩立像を旅の僧に与え、その僧が当地に安置したのが創建とされる。なお、この観音像は筑波山麓から湧出したので「小筑波」ともいう、ともされるが、その趣旨はよくわからない。筑波山には真言宗豊山派「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事)があるので、その所縁かもしれない。当地は、霞ヶ浦に張り出した出島半島の北側の入江である「高浜入り」と西側の入江である「土浦入り」とが1つになる「三叉沖(みつまたおき)」に臨んだ景勝地で、茨城県指定名勝地の第1号となっている。平安時代後期、八幡太郎こと源義家が奥州征伐の帰途、(霞ヶ浦の対岸から)遥か水上に山が突出して見えたので、これを「霞ヶ関」と号した、という。天治年間(1124~1126年)、沖で難破しそうになった船を、この観音が灯りを持って水上を歩いて渡り、助けたとの伝説がある。この故事により「歩崎観音」と呼ばれるようになり、特に霞ヶ浦での漁業や水上交通関係者から信仰された。また、寿永年間(1182~1185年)には、身籠った竜女が「歩崎観音」に祈願したところ、無事安産できたので、「金の機(はた)」(黄金造りの機織機)を奉納したともいう。このことから、安産祈願にも御利益があるとされる。「長禅寺」は「歩崎観音」の別当として、文明7年(1475年)に僧・良俊が開山し、江戸時代には土浦藩から庇護されて常夜灯が寄進されたりしたが、次第に衰退し、元々檀徒がいなかったこともあり、昭和初期には無住の寺院となった。その後も荒廃が進み、太平洋戦争時の空襲の爆風のため本堂が傾き、仁王像も倒れたままとなっていたところ、真言宗から独立した新興宗教法人・真如苑(真澄寺)が村人の協力を得て昭和23年頃から再建に努めた。現在の宗派は真如苑で、本尊は十一面観世音菩薩。なお、この観音像は秘仏として33年ごとの開帳だったが、2012年から毎年8月16日に開帳されるようになったという。長く秘仏とされていたため調査が行われず、観音像の製作年代等は不明で、特に文化財等の指定はなされていない。
写真1:「長禅寺」山門(仁王門)。
写真2:本堂(観音堂)
写真3:本堂は丸太で支えられている。
写真4:境内の「金毘羅神社」
写真5:「茨城百景 歩崎の眺望」石碑。傍らの石段を上ると、常夜灯と展望台がある。
写真6:展望台から見た霞ヶ浦