両津八幡神社(りょうつはちまんじんじゃ)。
場所:秋田県秋田市寺内大畑2。国道7号線(臨海バイパス)「港大橋前」交差点から北東に進み、突き当りを左折(北西へ)して約900mのところの右側(北東側)に社号標があり、そこから狭い道に入った突き当たり。駐車場なし。
社伝によれば、宝亀11年(780年)に鎮守府将軍・大津駿河麿が東夷征伐のため下向して戦功を上げ、帰洛の後、天応元年(781年)に「宇佐八幡宮」(豊前国一宮「宇佐神宮」)の神託によって諸国に八幡宮を建立したうちの1つとされる。また、一説によれば、陸奥出羽按察使・藤原小黒麻呂が勧請し、延暦年中(782~806年)に安倍黒縄が再興したともいう。祭神は、誉田別命。元は、現在「秋田県護国神社」のある場所(=「秋田城」の政庁跡付近)に鎮座していたとされ、近世まで境内も広く、大きな神社であったらしい。現・秋田市外旭川に「八幡田」という地名が残っているが、これは当神社の神領であったのが由来とされる。中世、当地を支配した安東氏以来、武人の神として代々崇敬されたものとみられる。なお、「両津」は、「土崎湊」(現・秋田市土崎)と「勝平浦」(現・秋田市新屋)という2つの港(国府津?)を指すという説もある(ただし、元々は「両都」としていたのを、明治時代初め、国道7号線開削した際に「両津」に改めたともされている。)。
伝承の創建時期については、なかなか信じ難いところもあるが、八幡神を勧請する前から地主神があって、後に習合したともいわれており、ひょっとすると、当神社こそ「日本書紀」の「齶田浦神」、あるいは「日本三代実録」の「高泉神」という式外社の後身かもしれない。
秋田県神社庁のHPから(両津八幡神社)
写真1:「両津八幡神社」参道入口。旧国道沿いに社号標がある(が、うっかりすると通り過ぎてしまう。)。

写真2:同上、鳥居

写真3:同上、社殿

写真4:「秋田県護国神社」。当神社の背後、「秋田城」の政庁跡の北側に鎮座。
場所:秋田県秋田市寺内大畑2。国道7号線(臨海バイパス)「港大橋前」交差点から北東に進み、突き当りを左折(北西へ)して約900mのところの右側(北東側)に社号標があり、そこから狭い道に入った突き当たり。駐車場なし。
社伝によれば、宝亀11年(780年)に鎮守府将軍・大津駿河麿が東夷征伐のため下向して戦功を上げ、帰洛の後、天応元年(781年)に「宇佐八幡宮」(豊前国一宮「宇佐神宮」)の神託によって諸国に八幡宮を建立したうちの1つとされる。また、一説によれば、陸奥出羽按察使・藤原小黒麻呂が勧請し、延暦年中(782~806年)に安倍黒縄が再興したともいう。祭神は、誉田別命。元は、現在「秋田県護国神社」のある場所(=「秋田城」の政庁跡付近)に鎮座していたとされ、近世まで境内も広く、大きな神社であったらしい。現・秋田市外旭川に「八幡田」という地名が残っているが、これは当神社の神領であったのが由来とされる。中世、当地を支配した安東氏以来、武人の神として代々崇敬されたものとみられる。なお、「両津」は、「土崎湊」(現・秋田市土崎)と「勝平浦」(現・秋田市新屋)という2つの港(国府津?)を指すという説もある(ただし、元々は「両都」としていたのを、明治時代初め、国道7号線開削した際に「両津」に改めたともされている。)。
伝承の創建時期については、なかなか信じ難いところもあるが、八幡神を勧請する前から地主神があって、後に習合したともいわれており、ひょっとすると、当神社こそ「日本書紀」の「齶田浦神」、あるいは「日本三代実録」の「高泉神」という式外社の後身かもしれない。
秋田県神社庁のHPから(両津八幡神社)
写真1:「両津八幡神社」参道入口。旧国道沿いに社号標がある(が、うっかりすると通り過ぎてしまう。)。

写真2:同上、鳥居

写真3:同上、社殿

写真4:「秋田県護国神社」。当神社の背後、「秋田城」の政庁跡の北側に鎮座。

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