蛇池大明神(じゃいけだいみょうじん)。
場所:茨城県猿島郡境町蛇池55。茨城県道17号線(結城野田線)「長井戸北」交差点から東へ約1.2km、「境町消防団第六分団」倉庫の斜め向かい側の狭い道路に入り、南に約120m。駐車場なし。
「蛇池大明神」は、現・茨城県境町の「蛇池」という地名(旧・「蛇池村」)の由来となったとされる大蛇伝説の池の傍らに建つ小祠である。大蛇伝説には2種類あり、その1つは次のとおり。現在は周りがすっかり農地になってしまったが、昔は椿(ツバキ)の木が鬱蒼と茂り、昼でも暗い池があった。そこに長さ十間(約18m)という大蛇が棲んでいて、村人から恐れられていた。見かねた近くの寺の住職・正進法印が、大蛇に向かって「しばらく他の場所に移ってもらいたい」といって、証文代わりに「十年」と書いた水晶の玉(あるいは米粒)を池に投げ入れた。これを見て、大蛇は印旛沼(現・千葉県北部)に引っ越して行ったが、約束の十年が過ぎて、元の池に帰ってきた。ところが、水晶玉の「十」の上に「ノ」が書き加えられていて、「十年」が「千年」になっていた。そこで、大蛇は、仕方なくまた印旛沼に戻っていった。村の者が印旛沼に行くと沼が荒れ狂う、というものである。印旛沼を鵠戸沼(くぐいどぬま。現・境町と坂東市に跨って存在した大きな沼で、現在は干拓されて水田になっている。)とするヴァリエーションもあるが、話の筋には殆ど影響がない。ただ、この話だけだと、大蛇を大明神として祀る必要性があまり感じられない(出て行ってくれたことに感謝した?)。また、大亀を相手に、「十」を「千」に書き換えて騙す話は現・常総市の「寿亀山 天樹院 弘経寺」(2021年5月29日記事)にもある。どちらが先かはわからないが、似たような話が他所にもあるということになる。さて、伝説の2つめは、次のようなものである。村にとても貧しい子沢山の百姓がいたが、金に困り3人の娘を江戸に奉公に出すことにした。父親は娘らの奉公先から奉公金を受け取り、家に帰ろうとしたが、魔が差したのか、遊郭で金を使い果たしてしまった。家に帰り、妻から奉公金のことを聞かれた夫(父親)は、奉公金を遊びに使ったとは言えず、「帰る途中で、池の大蛇に奉公金を呑み込まれてしまった」と、大蛇のせいにした。それ以来、この噂を聞いた村の人々も、何かにつけて自分に都合が悪いことは大蛇の仕業にするようになった。村人のあらゆる悪事の濡れ衣を押し付けられることになった大蛇を憐れんだ、近くの寺の住職・正純法師は「十年間姿を隠し、村人の心が入れかわってから池に戻ってほしい」と頼んだ。こうして、大蛇は池から姿を消し、十年経って戻ってきたが、村人の様子は以前と全く変わっていなかった。このことに絶望した大蛇は、再び姿を消し、戻ってはこなかった。その後、反省した村人が大蛇を憐れみ、祠を建てて供養するようになった。これが「蛇池大明神」であるという。こちらのほうも、いまいち、すっきり腑に落ちるような話ではないと思うのだが、どうだろうか。
一般的には、蛇=竜は水の神で、よく池沼の傍らに祀られる。多くは、旱のときの雨乞い祈願を行ったりする。当地の場合、南に利根川が流れており、昔は沼沢地が多かった土地柄だったとすると、むしろ水害を治める役割があったのかもしれない。
蛇足:伝説は別にして、「蛇池」という名の由来については、「在家(ざいけ)」という言葉が訛ったものというのが有力。「在家」というのは、出家しないままで仏道に帰依した者という意味もあるが、歴史的には、中世の荘園や公領において、民・住屋・耕地を1セットで把握し、夫役などの負担を負わせる徴税賦課単位を指し、「在家」が領主の財産とされていた。東国では、室町時代まで「在家」支配体制が続いたという。天正2年(1574年)の「古河公方足利義氏料所目録」(喜連川文書)の「上幸嶋」分に「在家 清式部」とあり、この「在家」というのが旧・蛇池村のことであり、清式部太夫という人物の支配地だったのだろうと考えられている。
境町観光協会のHPから(蛇池(大蛇伝説))
写真1:「大蛇伝説の池」。説明板がある。
写真2:「蛇池大明神」鳥居
写真3:同上、祠。「弘化三年 蛇池大明神」銘があるという(弘化三年は1846年)。
写真4:「大蛇伝説の池」。周囲約60m。訪問した時には、殆ど水が涸れていた。
写真5:同上
写真6:同上
場所:茨城県猿島郡境町蛇池55。茨城県道17号線(結城野田線)「長井戸北」交差点から東へ約1.2km、「境町消防団第六分団」倉庫の斜め向かい側の狭い道路に入り、南に約120m。駐車場なし。
「蛇池大明神」は、現・茨城県境町の「蛇池」という地名(旧・「蛇池村」)の由来となったとされる大蛇伝説の池の傍らに建つ小祠である。大蛇伝説には2種類あり、その1つは次のとおり。現在は周りがすっかり農地になってしまったが、昔は椿(ツバキ)の木が鬱蒼と茂り、昼でも暗い池があった。そこに長さ十間(約18m)という大蛇が棲んでいて、村人から恐れられていた。見かねた近くの寺の住職・正進法印が、大蛇に向かって「しばらく他の場所に移ってもらいたい」といって、証文代わりに「十年」と書いた水晶の玉(あるいは米粒)を池に投げ入れた。これを見て、大蛇は印旛沼(現・千葉県北部)に引っ越して行ったが、約束の十年が過ぎて、元の池に帰ってきた。ところが、水晶玉の「十」の上に「ノ」が書き加えられていて、「十年」が「千年」になっていた。そこで、大蛇は、仕方なくまた印旛沼に戻っていった。村の者が印旛沼に行くと沼が荒れ狂う、というものである。印旛沼を鵠戸沼(くぐいどぬま。現・境町と坂東市に跨って存在した大きな沼で、現在は干拓されて水田になっている。)とするヴァリエーションもあるが、話の筋には殆ど影響がない。ただ、この話だけだと、大蛇を大明神として祀る必要性があまり感じられない(出て行ってくれたことに感謝した?)。また、大亀を相手に、「十」を「千」に書き換えて騙す話は現・常総市の「寿亀山 天樹院 弘経寺」(2021年5月29日記事)にもある。どちらが先かはわからないが、似たような話が他所にもあるということになる。さて、伝説の2つめは、次のようなものである。村にとても貧しい子沢山の百姓がいたが、金に困り3人の娘を江戸に奉公に出すことにした。父親は娘らの奉公先から奉公金を受け取り、家に帰ろうとしたが、魔が差したのか、遊郭で金を使い果たしてしまった。家に帰り、妻から奉公金のことを聞かれた夫(父親)は、奉公金を遊びに使ったとは言えず、「帰る途中で、池の大蛇に奉公金を呑み込まれてしまった」と、大蛇のせいにした。それ以来、この噂を聞いた村の人々も、何かにつけて自分に都合が悪いことは大蛇の仕業にするようになった。村人のあらゆる悪事の濡れ衣を押し付けられることになった大蛇を憐れんだ、近くの寺の住職・正純法師は「十年間姿を隠し、村人の心が入れかわってから池に戻ってほしい」と頼んだ。こうして、大蛇は池から姿を消し、十年経って戻ってきたが、村人の様子は以前と全く変わっていなかった。このことに絶望した大蛇は、再び姿を消し、戻ってはこなかった。その後、反省した村人が大蛇を憐れみ、祠を建てて供養するようになった。これが「蛇池大明神」であるという。こちらのほうも、いまいち、すっきり腑に落ちるような話ではないと思うのだが、どうだろうか。
一般的には、蛇=竜は水の神で、よく池沼の傍らに祀られる。多くは、旱のときの雨乞い祈願を行ったりする。当地の場合、南に利根川が流れており、昔は沼沢地が多かった土地柄だったとすると、むしろ水害を治める役割があったのかもしれない。
蛇足:伝説は別にして、「蛇池」という名の由来については、「在家(ざいけ)」という言葉が訛ったものというのが有力。「在家」というのは、出家しないままで仏道に帰依した者という意味もあるが、歴史的には、中世の荘園や公領において、民・住屋・耕地を1セットで把握し、夫役などの負担を負わせる徴税賦課単位を指し、「在家」が領主の財産とされていた。東国では、室町時代まで「在家」支配体制が続いたという。天正2年(1574年)の「古河公方足利義氏料所目録」(喜連川文書)の「上幸嶋」分に「在家 清式部」とあり、この「在家」というのが旧・蛇池村のことであり、清式部太夫という人物の支配地だったのだろうと考えられている。
境町観光協会のHPから(蛇池(大蛇伝説))
写真1:「大蛇伝説の池」。説明板がある。
写真2:「蛇池大明神」鳥居
写真3:同上、祠。「弘化三年 蛇池大明神」銘があるという(弘化三年は1846年)。
写真4:「大蛇伝説の池」。周囲約60m。訪問した時には、殆ど水が涸れていた。
写真5:同上
写真6:同上
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