大甕神社(おおみかじんじゃ)。別名:大甕倭文神社(神宮)(おおみかしずじんじゃ(じんぐう))。
場所:茨城県日立市大みか町6-16-1。国道6号線「日研入口」交差点から側道(旧道)を東へ約250m、または同「大みか神社入口」交差点(信号)の北東の側道(旧道)から南へ約220m。駐車場有り。なお、国道6号線沿い、「大みか神社入口」交差点から南西に約40mのところに大鳥居があり、そこから入っても良いようだ(駐車スペースもある。)。
社伝によれば、創建は皇紀元年(紀元前660年)。「日本書紀」によれば、所謂「葦原中国平定」において、経津主神(フツヌシ)と武甕槌命(タケミカツチ)が邪神、草木・石までも平定したが、星神・香香背男(カガセオ)(別名:天津甕星(アマツミカホシ)、天香香背男(アメノカガセオ))だけが従わなかった。そこで、倭文神・建葉槌命(タケハヅチ)が遣わされ、服従させることができた、という。これが常陸国のことだとは書いていないが、経津主神は下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)の、武甕槌命は常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)の、建葉槌命は常陸国二宮「靜神社」(2018年2月24日記事)の祭神である。そして、当地(現・茨城県日立市付近)が奥州に向かう交通の要衝であることからして、あるいは当地に星を守護神とする(最後の)反ヤマト勢力が居たのではないか、という考え方もある。面白いのは、経津主神と武甕槌命という武力最強コンビでも倒せなかった香香背男を、本来は織物の神である建葉槌命が服従させたというところで、織物に神秘の力が宿っているという信仰があったのではないか、という妄想もあり得よう(建葉槌命は女神で、武力ではなく、懐柔したとする説もある。)。
因みに、民話では、「経津主神と武甕槌命が常陸国を平定しようとしていたとき、久慈の大甕山を支配していた香香背男が反抗し、妖術を使って自分の姿を岩に変え、どんどん大きくなって天にも届くかと思われるほどになった。そこで、建葉槌命が鎧兜に身を固めて駆け付けると、その巨大な岩を金の沓(くつ)で思いきり蹴とばした。岩は3つに割れて、1つは石神(現・茨城県東海村石神外宿)、1つは石塚(現・茨城県城里町石塚)に、1つは石井(現・茨城県笠間市石井)に飛んで行った。残った岩の根が現在当神社境内にある「宿魂石」であり、香香背男の魂が宿っている。」ということになっている。民話なので色々とヴァリエーションがあり、「金の沓」というのが「鉄の沓」になっている話もある。これが、建葉槌命を奉斎する一族が強力な鉄製の武器を持っていたのではないか、とする説になったりもしているようだ。
さて、当神社は、元は「大甕山」(現・「風神山」)中腹(山頂という説もある。)に祀られたが、元禄8年(1695年)、第2代水戸藩主・徳川光圀の命により、香々背男の磐座である「宿魂石」の上に遷座したという。これが現在の本殿で、武葉槌命(建葉槌命)を祭神とする。また、境内社として「甕星香々背男社」があり、こちらは地主神として甕星香々背男(ミカボシカガセオ)を祀るという。
大甕神社のHP
写真1:「大甕神社」正面鳥居と社号標(「大甕倭文神社」)
写真2:石段を上ると、すぐ拝殿。
写真3:拝殿の向かって右に進むと「宿魂石」石碑と巨石。ただし、この巨石のみが「宿魂石」ではなく、岩山全体を指すとのこと。
写真4:「宿魂石」を上っていくと、なんと鎖場が。。。
写真5:頂上に本殿がある。
写真6:本殿。神額は「式外 大甕神社」となっている。「式外」というのは、所謂「式内社」ではないが、「延喜式神名帳」成立当時には存在していた神社である、という意味だろうか。
写真7:境内社「甕星香々背男社」
写真8:境内北東側にある白い大鳥居と社号標。国道6号線に面しているが、こちらは裏参道に当たる。
写真9:当神社の国道を隔てた西側にある「風神山」の中腹にある「古宮跡」と思われる場所。当神社のHPによれば、石碑が建てられていたようであるが、今は無いらしく、立入禁止になっている。
場所:茨城県日立市大みか町6-16-1。国道6号線「日研入口」交差点から側道(旧道)を東へ約250m、または同「大みか神社入口」交差点(信号)の北東の側道(旧道)から南へ約220m。駐車場有り。なお、国道6号線沿い、「大みか神社入口」交差点から南西に約40mのところに大鳥居があり、そこから入っても良いようだ(駐車スペースもある。)。
社伝によれば、創建は皇紀元年(紀元前660年)。「日本書紀」によれば、所謂「葦原中国平定」において、経津主神(フツヌシ)と武甕槌命(タケミカツチ)が邪神、草木・石までも平定したが、星神・香香背男(カガセオ)(別名:天津甕星(アマツミカホシ)、天香香背男(アメノカガセオ))だけが従わなかった。そこで、倭文神・建葉槌命(タケハヅチ)が遣わされ、服従させることができた、という。これが常陸国のことだとは書いていないが、経津主神は下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)の、武甕槌命は常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)の、建葉槌命は常陸国二宮「靜神社」(2018年2月24日記事)の祭神である。そして、当地(現・茨城県日立市付近)が奥州に向かう交通の要衝であることからして、あるいは当地に星を守護神とする(最後の)反ヤマト勢力が居たのではないか、という考え方もある。面白いのは、経津主神と武甕槌命という武力最強コンビでも倒せなかった香香背男を、本来は織物の神である建葉槌命が服従させたというところで、織物に神秘の力が宿っているという信仰があったのではないか、という妄想もあり得よう(建葉槌命は女神で、武力ではなく、懐柔したとする説もある。)。
因みに、民話では、「経津主神と武甕槌命が常陸国を平定しようとしていたとき、久慈の大甕山を支配していた香香背男が反抗し、妖術を使って自分の姿を岩に変え、どんどん大きくなって天にも届くかと思われるほどになった。そこで、建葉槌命が鎧兜に身を固めて駆け付けると、その巨大な岩を金の沓(くつ)で思いきり蹴とばした。岩は3つに割れて、1つは石神(現・茨城県東海村石神外宿)、1つは石塚(現・茨城県城里町石塚)に、1つは石井(現・茨城県笠間市石井)に飛んで行った。残った岩の根が現在当神社境内にある「宿魂石」であり、香香背男の魂が宿っている。」ということになっている。民話なので色々とヴァリエーションがあり、「金の沓」というのが「鉄の沓」になっている話もある。これが、建葉槌命を奉斎する一族が強力な鉄製の武器を持っていたのではないか、とする説になったりもしているようだ。
さて、当神社は、元は「大甕山」(現・「風神山」)中腹(山頂という説もある。)に祀られたが、元禄8年(1695年)、第2代水戸藩主・徳川光圀の命により、香々背男の磐座である「宿魂石」の上に遷座したという。これが現在の本殿で、武葉槌命(建葉槌命)を祭神とする。また、境内社として「甕星香々背男社」があり、こちらは地主神として甕星香々背男(ミカボシカガセオ)を祀るという。
大甕神社のHP
写真1:「大甕神社」正面鳥居と社号標(「大甕倭文神社」)
写真2:石段を上ると、すぐ拝殿。
写真3:拝殿の向かって右に進むと「宿魂石」石碑と巨石。ただし、この巨石のみが「宿魂石」ではなく、岩山全体を指すとのこと。
写真4:「宿魂石」を上っていくと、なんと鎖場が。。。
写真5:頂上に本殿がある。
写真6:本殿。神額は「式外 大甕神社」となっている。「式外」というのは、所謂「式内社」ではないが、「延喜式神名帳」成立当時には存在していた神社である、という意味だろうか。
写真7:境内社「甕星香々背男社」
写真8:境内北東側にある白い大鳥居と社号標。国道6号線に面しているが、こちらは裏参道に当たる。
写真9:当神社の国道を隔てた西側にある「風神山」の中腹にある「古宮跡」と思われる場所。当神社のHPによれば、石碑が建てられていたようであるが、今は無いらしく、立入禁止になっている。