神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

大宝八幡宮

2021-03-06 23:23:44 | 神社
大宝八幡宮(だいほうはちまんぐう)。
場所:茨城県下妻市大宝667。茨城県道335号線(大宝停車場線)と同357号線(谷和原筑西線)の交差点から県道335号線を北へ約300mで「一の鳥居」、そこから更に北に約300mで駐車場のある「三の鳥居」付近。なお、関東鉄道常総線「大宝」駅から「三の鳥居」まで徒歩2~3分。
大宝元年(701年)、藤原時忠(藤原鎌足の玄孫?)が常陸国に下向したとき、東国平定の鎮護神として「宇佐八幡宮」(豊前国一宮「宇佐神宮」)の分霊を勧請したのが創建。社名の「大宝」は創建年号によるとされ、「関東最古の八幡様」と称している。平将門(903?~940年)が戦勝祈願のために度々参拝し、当神社の巫女から「新皇」の位を授けられたと伝わる。康平5年(1062年)、源義家が「前九年の役」凱旋時に当神社に詣でて戦勝奉賽した。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」にある「下妻宮」は当神社のことであり、文治5年(1189年)、奥州平定を記念して源頼朝が鎌倉の「鶴岡八幡宮若宮」を勧請して当神社に摂社「若宮八幡宮」を創建した。中世には神仏混淆が進み、境内に神宮寺として「賢了院」など8ヵ寺があり、総称して「大宝寺」といわれた。15世紀になると、下妻を所領とした多賀谷氏の篤い崇敬を受け、戦勝祈願の都度、刀剣を奉納したことから「剣八幡宮」とまで呼ばれるようになった。江戸時代にも、第3代将軍・徳川家光から115石の朱印状を受けるなど庇護された。明治時代になると、神仏分離により「大宝寺」は廃寺となり、明治4年に県社に列せられた。現在の祭神は、誉田別命(第15代・応神天皇)、足仲彦命(第14代・仲哀天皇)、気長足姫命(神功皇后(仲哀天皇の皇后))。なお、一般に八幡宮(八幡神社)は清和源氏の武家の崇敬が篤く、御利益としては武運長久・立身出世・子孫繁栄などだが、当神社の場合、「大宝」という縁起が良い名を冠しているだけに財運招福、特に宝くじ当選祈願で有名であるらしい。関東鉄道でも、主要駅窓口やウェブショップで「大宝駅開運入場券」(お守り)というものを販売している(「大宝」駅は無人駅です。念のため。)。
蛇足ながら、このブログでも時々引用している平田篤胤著「仙境異聞」(「飯綱神社」(2018年12月15日記事)、「加波山」(2021年1月16日記事)など参照)であるが、そこにも当神社について言及されている。それは、山人(天狗)の下で修業していたという寅吉が家に帰る際、途中の「大宝村の八幡宮に参詣し、神前に奉納された刀剣が大量にある中から一振の脇差を選んで差料としてもらった」(現代語訳)というものである。これは、上記の「剣八幡宮」という異名もあることが江戸時代にも知られていたということだろう。寅吉の話はフィクションとしか思えないが、こうしたエピソードを織り交ぜる辺り、寅吉もなかなかのものである。


大宝八幡宮のHP


写真1:「大宝八幡宮」一の鳥居と社号標(「大寶八幡宮」。入口(一の鳥居)が狭くなっているのは、当神社境内が「大宝城」の一部で、ここが南端の「大手口」に当たるため。少し奥に、二の鳥居も見える。


写真2:一の鳥居付近に残る「大宝城」の土塁。「大宝城」の築城時期は不明だが、南北朝時代には南朝方について戦ったとされる。「大宝城跡」は国指定文化財。


写真3:巨大な三の鳥居


写真4:随身門。昭和天皇御座位六十年を記念して建立された神門だが、仁王像が守っている。


写真5:仁王像(阿形)。表情がファンキー。


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:万葉歌碑。境内には万葉歌碑が6基ある。他の4基は、鐘楼前、摂社「若宮八幡宮」前、同狛犬の台座。


写真9:摂社「若宮八幡宮」(祭神:大鷦鷯命(第16代・ 仁徳天皇))。


写真10:祖霊殿。旧「大宝寺」の護摩堂で、「大宝寺」唯一の遺構(江戸時代のもの)。
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