尸羅度山 曼珠院 西蓮寺(しらとさん まんしゅいん さいれんじ)。
場所:茨城県行方市西蓮寺504。茨城県道183号線(山田玉造線)「井上」交差点から北西へ約1.1kmのところ(案内板表示がある。なお、曲がり角の北側に「茨城百景 西連寺」石碑がある。)で右折(東へ)、約600m進んで右折(南へ。「西連寺参道 仁王門駐車場」という看板がある。)、約160mで左折(北東へ)、約120mで駐車場。なお、自動車でなければ、上記「駐車場」の看板の少し先に、狭い道路の参道がある。
寺伝によれば、創建は延暦元年(782年)、第50代・桓武天皇の勅命により最澄(伝教大師)の高弟である最仙上人が開山したという。最仙上人は常陸国関城(現・茨城県筑西市)出身で、常陸国の「講師(こうじ)」(国分寺の僧尼を管理し、経典を講義する役職の僧)に任じられ、常陸国での天台宗の布教に努めた。当寺院のほかにも、現・茨城県桜川市の「薬王院」(2020年12月26日記事)、現・同県土浦市の「東城寺」(2020年8月15日)、現・同「常福寺」(2022年4月9日記事)なども創建(または中興)したとされている。当寺院は常陸国東部における天台宗の中心的な存在として寺運が隆盛し、最盛期には末寺30余寺を擁する大寺院となった。平安時代後期、忠尋大僧正(第46代天台座主、曼殊院門跡)が京都の戦乱を逃れて当寺を訪れた際、山門に「曼殊院」の扁額を掲げた。鎌倉時代には、「比叡山 延暦寺」の塔頭「無動寺」(現・滋賀県大津市)から慶弁阿闍梨が来て、七堂伽藍を整備するなど中興した。境内の相輪橖(そうりんとう)は、二度目の元寇「弘安の役」(弘安4年(1281年))の戦勝記念と戦死者の供養のため、慶弁が弘安10年(1287年)に建立したもので、日本三相輪橖の1つ(他の2つは「比叡山 延暦寺」と「日光山 輪王寺」のもの。)に数えられている。明応8年(1499年)、兵火により堂宇・古文書など多くを焼失するも、文亀2年(1502年)に再建され、江戸時代には幕府からの庇護もあった。明治16年にも、火災により仁王門・相輪橖以外の堂宇が焼けるなど大きな被害を受けたが、その後順次再建された。現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師如来。この本尊の木造薬師如来坐像は最仙上人の作と伝わり、一木背刳造で像高約150cm。茨城県教育委員会のHPでは製作時期を室町時代末期としているが、行方市のHPでは平安時代・貞観年間(859~877年)の作としている。平安時代初期の衣の襞の表現方式である翻波式(ほんぱしき)の名残をとどめているということから、平安時代の仏像の可能性がある(その場合、茨城県内最古とされる。)とのこと。昭和33年に茨城県指定重要文化財に指定された。関東九十一薬師霊場第78番札所となっている。
なお、当寺院の伝統行事として「常行三昧会」がある(行方市指定無形民俗文化財)。これは、当寺院の末寺・門徒寺の僧侶が常行堂に集まり、9月24日~30日までの七日七夜に亘って堂内を廻りながら「西連寺節」と称される独特の節回しで立行誦経する大法要である。寛治年間(1087~1094年)に地元の長者(「唐ヶ崎長者」)が「比叡山 延暦寺」から移したものとされる。伝説によれば、永承年間(1046~1053年)頃、「唐ヶ崎長者」に1人の娘があったが、病弱だったので当寺院の薬師如来に祈願したところ、健康を取り戻した。ところが、八幡太郎・源義家が「後三年の役(後三年合戦)」(1083~1087年)のため奥州征討の途上で長者の館に逗留した。このとき、長者から豪勢な饗応を受けたことから、逆に義家の警戒心をあおり、長者の館を焼き討ちした。ここまでは、常陸国内各地に残る「長者伝説」と同様だが(例えば「台渡里官衙遺跡群(2019年3月16日記事)」の「一盛長者」など。)、当地では、長者の娘(通称「西蓮寺婆さん」)だけが生き残り、一家の供養のために、この法要を始めたとされる。地元では「仏立て」とも称し、宗旨の別なく周辺地域からも新仏供養のために多くの参詣客が集まり、戦前までは門前に「西蓮寺市」という市も立って大変賑わったという。
蛇足:当寺院にも、平将門に関する伝説がある。将門が討たれた後、その侍女だった玉虫の前、あるいは桔梗の前は唐ヶ崎長者所縁の者で、世の無常を悟り、当地に戻って長者を説いて当寺院の再興に尽くした。その作業のために働いて倒れた牛の墓標として植えたのが、現在の2本の大イチョウである。この玉虫の前、あるいは桔梗の前は出家して如月尼と称したが、村人らからは西蓮寺婆さんと呼ばれたという話である。西蓮寺婆さんの実在性を示す証拠はないようだが、それだけよく知られた人物だったということだろう。
観光いばらきのHPから(西蓮寺)
写真1:仁王門。天文12年(1543年)に建てられた楼門を寛政年間(1789~1801年)に改修して単層にしたもので、安政7年(1860年)に山門として移築された。大正6年、国指定重要文化財に指定。
写真2:薬師堂。本尊の薬師如来を祀るが、茨城県指定有形文化財となっているため、奥の収蔵室に安置されているとのこと。常行三昧会の時のみ開帳。
写真3:常行堂。堂本尊は阿弥陀如来。
写真4:常行堂横の万霊塔。台座上の延命地蔵石像について、「玉造町史」では「西蓮寺婆さん」としている。一方、常行堂内の賓頭盧(びんずる)像を「西蓮寺婆さん」としている資料もある。因みに、当寺院は茨城百八地蔵尊霊場第97番札所にもなっている。
写真5:相輪橖。全体的に錫杖形をしており、高さは9.16mある。大正6年、国指定重要文化財に指定。
写真6:大イチョウ。2株あり、いずれも最仙上人の手植え(あるいは、杖が根付いたもの)と伝わり、推定樹齢約1000年。1号株は高さ約25m、幹周り約6m(明治16年の火災で墨化し、細くなったという。)。2株とも昭和39年に茨城県指定天然記念物に指定。根元に子安観世音菩薩(石仏)が祀られている。
写真7:大イチョウ2号株。高さ約27m、幹周り約8m。根元に「尸羅度稲荷神社」が祀られている。
場所:茨城県行方市西蓮寺504。茨城県道183号線(山田玉造線)「井上」交差点から北西へ約1.1kmのところ(案内板表示がある。なお、曲がり角の北側に「茨城百景 西連寺」石碑がある。)で右折(東へ)、約600m進んで右折(南へ。「西連寺参道 仁王門駐車場」という看板がある。)、約160mで左折(北東へ)、約120mで駐車場。なお、自動車でなければ、上記「駐車場」の看板の少し先に、狭い道路の参道がある。
寺伝によれば、創建は延暦元年(782年)、第50代・桓武天皇の勅命により最澄(伝教大師)の高弟である最仙上人が開山したという。最仙上人は常陸国関城(現・茨城県筑西市)出身で、常陸国の「講師(こうじ)」(国分寺の僧尼を管理し、経典を講義する役職の僧)に任じられ、常陸国での天台宗の布教に努めた。当寺院のほかにも、現・茨城県桜川市の「薬王院」(2020年12月26日記事)、現・同県土浦市の「東城寺」(2020年8月15日)、現・同「常福寺」(2022年4月9日記事)なども創建(または中興)したとされている。当寺院は常陸国東部における天台宗の中心的な存在として寺運が隆盛し、最盛期には末寺30余寺を擁する大寺院となった。平安時代後期、忠尋大僧正(第46代天台座主、曼殊院門跡)が京都の戦乱を逃れて当寺を訪れた際、山門に「曼殊院」の扁額を掲げた。鎌倉時代には、「比叡山 延暦寺」の塔頭「無動寺」(現・滋賀県大津市)から慶弁阿闍梨が来て、七堂伽藍を整備するなど中興した。境内の相輪橖(そうりんとう)は、二度目の元寇「弘安の役」(弘安4年(1281年))の戦勝記念と戦死者の供養のため、慶弁が弘安10年(1287年)に建立したもので、日本三相輪橖の1つ(他の2つは「比叡山 延暦寺」と「日光山 輪王寺」のもの。)に数えられている。明応8年(1499年)、兵火により堂宇・古文書など多くを焼失するも、文亀2年(1502年)に再建され、江戸時代には幕府からの庇護もあった。明治16年にも、火災により仁王門・相輪橖以外の堂宇が焼けるなど大きな被害を受けたが、その後順次再建された。現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師如来。この本尊の木造薬師如来坐像は最仙上人の作と伝わり、一木背刳造で像高約150cm。茨城県教育委員会のHPでは製作時期を室町時代末期としているが、行方市のHPでは平安時代・貞観年間(859~877年)の作としている。平安時代初期の衣の襞の表現方式である翻波式(ほんぱしき)の名残をとどめているということから、平安時代の仏像の可能性がある(その場合、茨城県内最古とされる。)とのこと。昭和33年に茨城県指定重要文化財に指定された。関東九十一薬師霊場第78番札所となっている。
なお、当寺院の伝統行事として「常行三昧会」がある(行方市指定無形民俗文化財)。これは、当寺院の末寺・門徒寺の僧侶が常行堂に集まり、9月24日~30日までの七日七夜に亘って堂内を廻りながら「西連寺節」と称される独特の節回しで立行誦経する大法要である。寛治年間(1087~1094年)に地元の長者(「唐ヶ崎長者」)が「比叡山 延暦寺」から移したものとされる。伝説によれば、永承年間(1046~1053年)頃、「唐ヶ崎長者」に1人の娘があったが、病弱だったので当寺院の薬師如来に祈願したところ、健康を取り戻した。ところが、八幡太郎・源義家が「後三年の役(後三年合戦)」(1083~1087年)のため奥州征討の途上で長者の館に逗留した。このとき、長者から豪勢な饗応を受けたことから、逆に義家の警戒心をあおり、長者の館を焼き討ちした。ここまでは、常陸国内各地に残る「長者伝説」と同様だが(例えば「台渡里官衙遺跡群(2019年3月16日記事)」の「一盛長者」など。)、当地では、長者の娘(通称「西蓮寺婆さん」)だけが生き残り、一家の供養のために、この法要を始めたとされる。地元では「仏立て」とも称し、宗旨の別なく周辺地域からも新仏供養のために多くの参詣客が集まり、戦前までは門前に「西蓮寺市」という市も立って大変賑わったという。
蛇足:当寺院にも、平将門に関する伝説がある。将門が討たれた後、その侍女だった玉虫の前、あるいは桔梗の前は唐ヶ崎長者所縁の者で、世の無常を悟り、当地に戻って長者を説いて当寺院の再興に尽くした。その作業のために働いて倒れた牛の墓標として植えたのが、現在の2本の大イチョウである。この玉虫の前、あるいは桔梗の前は出家して如月尼と称したが、村人らからは西蓮寺婆さんと呼ばれたという話である。西蓮寺婆さんの実在性を示す証拠はないようだが、それだけよく知られた人物だったということだろう。
観光いばらきのHPから(西蓮寺)
写真1:仁王門。天文12年(1543年)に建てられた楼門を寛政年間(1789~1801年)に改修して単層にしたもので、安政7年(1860年)に山門として移築された。大正6年、国指定重要文化財に指定。
写真2:薬師堂。本尊の薬師如来を祀るが、茨城県指定有形文化財となっているため、奥の収蔵室に安置されているとのこと。常行三昧会の時のみ開帳。
写真3:常行堂。堂本尊は阿弥陀如来。
写真4:常行堂横の万霊塔。台座上の延命地蔵石像について、「玉造町史」では「西蓮寺婆さん」としている。一方、常行堂内の賓頭盧(びんずる)像を「西蓮寺婆さん」としている資料もある。因みに、当寺院は茨城百八地蔵尊霊場第97番札所にもなっている。
写真5:相輪橖。全体的に錫杖形をしており、高さは9.16mある。大正6年、国指定重要文化財に指定。
写真6:大イチョウ。2株あり、いずれも最仙上人の手植え(あるいは、杖が根付いたもの)と伝わり、推定樹齢約1000年。1号株は高さ約25m、幹周り約6m(明治16年の火災で墨化し、細くなったという。)。2株とも昭和39年に茨城県指定天然記念物に指定。根元に子安観世音菩薩(石仏)が祀られている。
写真7:大イチョウ2号株。高さ約27m、幹周り約8m。根元に「尸羅度稲荷神社」が祀られている。