長い雨の後の大きな水たまりの表面がゆらゆらとして物語が浮かんでいました。水の紙芝居のようでした。
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいて昔話に花を咲かせていました。昔のことらしく幾らでも遡ることができるので、なかなか話は先に進みません。おじいさんに先に進めようとする意思はなく、おばあさんには遡るための引き出しが幾つもありました。引き出しを開けると、新しいおじいさんとおばあさんが現れて、新しい昔話が始まります。
「昔話は尽きませんな」
話が尽きない限り、時間はいくらあっても足りませんでした。先を急ぐばかりの若者は、話をろくに聞かずに町を出て行きました。残ったおじいさんとおばあさんは、昔話に話を咲かせます。そうして、おじいさんとおばあさんばかりが、どんどん増えていきました。
おじいさんとおばあさんがいなければ、昔話は始まりません。そして、おじいさんとおばあさんが増え続ける限り、昔話は増えていくのです。
おじいさんはそれはそれは大きな秋刀魚を買うと意気揚々と家に帰りました。何しろおじいさんは秋刀魚が大好きだったしこんなに大きな秋刀魚はこれまで一度も見たことがなかったのです。そして、秋刀魚が好きなのはおじいさんばかりか、おばあさんも秋刀魚が大好きだったものだから、それはなおさらのこと、そうしなければならなかったのです。何しろおじいさんは、おばあさんが美味しいものを食べている時の表情が一番好きだったのです。秋刀魚と同じくらいに好きでした。
おじいさんは秋刀魚を買って踊るようにして家に帰りました。玄関を開けて中に入ろうとすると、おじいさんは体が中に入らないことに気がつきました。大きすぎる秋刀魚のせいで入れないのでした。流石のおじいさんもこれには大層がっくりと肩を落としました。
「なんてこったい! こんなに大きな秋刀魚は初めて見た!」
それからおじいさんは気を取り直して、今度は秋刀魚を縦にしたり傾けたりしながら、どうにかして中に入れないものかと努力に努力を重ねました。その結果、どうにか道が開けるかもしれない。そういうことが今までにもあった。そうだ、あったに違いない。報われない努力があったことか。おじいさんは自らに言い聞かせながら、何度も何度も秋刀魚と共に家に入る努力を続けました。おじいさんは今までの豊富な人生経験から、努力が人を裏切らないことを、誰よりもよく知っていたのです。
そうしてまだ実らない努力を続けている間に、おばあさんが帰ってきました。おばあさんは手に大きな秋刀魚を持っていました。
「おじいさん。まあおじいさん。何を努力をしているの?」
おばあさんは手に大きな秋刀魚を持ちながら言いました。
「いやなに、秋刀魚がなかなか言うことを聞かないものでな」
「あらまあ、おじいさん! 私も秋刀魚を買ってきたのよ!」
「おばあさん! なんと大きな秋刀魚じゃ!」
おじいさんは、おばあさんの手にある秋刀魚の大きさに驚いて言いました。
「おじいさんの秋刀魚も、大きいじゃないの!」
「そうなんじゃ、おばあさん! 大きくて大変だよ!」
「それは大変ね!」
「何を言うかね、おばあさん。おばあさんの秋刀魚も大きいじゃないか!」
おじいさんとおばあさんは、お互いの秋刀魚を照らし合わせて、大きさを比べてみることにしました。するとどうでしょう。秋刀魚と秋刀魚が照らし合って、きらりと光り輝きました。それは二人の前に突然生まれた星のように光ったのでした。一瞬、二人はそのまぶしさに驚いて、顔を遠ざけました。
「おお! なんてまぶしいんだ!」
「だけど家の中には入れない」
その時、秋刀魚は二人の前で剣のように輝きを放ちました。
二人は秋刀魚の剣を握ったまま、かちかちとぶつけ合って闘いました。秋刀魚が剣士を作り、剣士にプライドが目覚めたためでした。閉ざされ玄関の前で二人は幾度となく剣をぶつけ合って闘いました。決着が着くよりも早く、二人が剣を置く時間が訪れました。剣が夜に恋して交わる内に、鱗が落ちて秋刀魚の顔が戻ってきたためでした。
「家に入って休みましょう」
「そうだ。そうしようじゃないか」
おじいさんとおばあさんは家に入ってしばらく休憩を取ることにしました。秋刀魚のことを完全に忘れたというわけではなく、休憩を取った後にまた改めて考えることにしたのです。いいアイデアが湧いてくるかどうか、二人に確信など微塵もありませんでした。そればかりか気まずい空気が流れていたのです。おじいさんは、窓を開けて新しい風を呼び込もうとしました。窓からは、風ではなく他ならぬものが入ってきました。それは他ならぬ気分的なもの、他ならぬ季節的なもの、他ならぬ昆虫的なもの、他ならぬ憂鬱なもの、他ならぬ演奏的なもの、他ならぬ感覚的なもの、他ならぬ他人めいたもの……。そして、二人にとって待ちかねた、他ならぬ閃き以外の一切だったのです。
おじいさんはいても立ってもいられなくなって、家を飛び出しました。そして、その後におばあさんも続きました。
外に出て秋刀魚を手に持つとそれは前よりも重みを増しているように感じました。やはり巨大すぎて玄関を通らないのは、前と同じです。その時おじいさんの頭に、待望のアイデアが閃きました。
「ここで焼けばいいじゃないか!」
「そうね! おじいさん!」
すぐにおばあさんも賛同しました。早速煙を起こし、秋刀魚を焼き始めました。なんとも言えないよい香りが、広がっていきます。それはこの世の秋を感じさせるもの、生きていて良かったと思わせるに十分すぎるほどの香りでした。けれども、その魔力的な香りに引きつけられるようにして、邪悪なものたちが迫っていることに二人は気がつきませんでした。
「そろそろ食べ頃かね、おばあさん?」
いよいよおじいさんの空腹も限界に近づいているのでした。
「なあ、おばあさん?」
煙の中に、おばあさんを見つけることができませんでした。
おばあさんが姿を消したことを知ったおじいさんは、一人寂しく秋刀魚を食べなければなりませんでした。
おばあさんに関する手がかりと言えば、ほんの少し前に野生の雄叫びのような声が聞こえたというだけでした。
一人になってしまったおじいさんは、おばあさんの気配を追って町中を歩きました。そして、町を飛び出して山の奥にまで潜っていきました。どこまで行ってもおばあさんの姿はなく、おじいさんは途方に暮れて座り込みました。その時、木陰から密かにおじいさんの様子を見ているものがいました。それは何か小さな存在のようでした。
「出ておいで」
おじいさんの囁きに安心したのか、イノシシの子供がゆっくりと姿を現しました。それは母親からはぐれた子イノシシでした。おじいさんはポケットの中から残りのチョコレートを取り出して与えました。すっかり日が暮れて、おじいさんが肩を落として山を下りると、後ろから子イノシシがついてきました。手で追い払うような仕草をしても、しっしっと言っても、まるで通じません。仕方なくおじいさんは子イノシシを連れて帰りました。どことなくおばあさんの面影が感じられたからです。
おじいさんと子イノシシの生活が始まりました。おじいさんは、どこに行く時も子イノシシと一緒でした。図書館に足を運んでは、イノシシのことについて学び、また子イノシシの方もおじいさんと共に歩むことで、人間の習性を徐々に学んでいったのでした。そんな互いの努力もあって、イノシシは一人前に成長し、すっかり町の人気者になったのでした。
多くの役割がイノシシに与えられました。一日警察署長、一日駅長、一日校長先生、一日コンビニ店長、一日動物園長、一日映画監督、一日大学教授。そうした一日一日が、宝物のようでした。おじいさんは、イノシシの後に、マネージャーのようについて回りました。
ある日、イノシシが死んでしまいました。葬儀には、町中からたくさんの人が押し寄せ別れを惜しみました。
おじいさんは悲しみに打ち勝とうとして仕事に打ち込みました。おじいさんの仕事は獣医でした。以前にも増して積極的に最新医療を学ぶようになり、またイノシシで儲けた資金を投入して、最新機器を次々と導入しました。そうした努力の甲斐もあって、おじいさんの動物病院の名声は、町だけに留まらぬ広がりを見せ、国中から名医の治療を求めて動物たちがワンワン、キャンキャンと押し寄せるようになりました。
「うちの子がとても苦しそうなの」
少女は狼を抱きかかえながら、駆け込んできました。
「何か変わったものを食べましたか?」
「わからない。わからないのよ」
何もわからないと言って、女の子は泣きました。
名医は次々と質問を浴びせました。女の子は泣いていて、一つも答えられません。名医はレントゲンを撮るため、狼を抱えました。とても苦しげに息をしています。
「これは何だろう?」
写真を見てみると何か得体の知れないものが写っていました。名医は手術台に狼を運び、鋭利なメスで狼のお腹を切り裂きました。すると中におばあさんが隠れていました。
「おお! おばあさん! こんなところにいたのかい!」
おばあさんを狼のお腹から取り除くと丁寧に縫いつけました。そして、今度はおばあさんを抱きかかえて、少女の元へと行きました。
「腹痛の原因はわかりましたよ。もう大丈夫です」
「ありがとう! 先生、ありがとう!」
今度はうれしさのあまり泣きました。
うれしいのはおじいさんも一緒でした。何しろようやくおばあさんと再会することができたのですから。間もなくおじいさんも泣き出しました。
「どうしたの? おじいさん?」
おばあさんが長い眠りから覚めて口を開きました。
「何だかおかしな夢を見ていたわ」
「どんな夢だね? おばあさん」
「秋刀魚を手にして戦っていたの」
「そうかね。それはおかしな夢だね、おばあさん」
枯渇の旅人が水たまりを飲み干すと紙芝居は消えてしまいました。おじいさんも消え、おばあさんも消えてしまいました。
「妖しい奴が紛れ込んでいる」
教官が一同の前に立ち冷静な目で言った。
妖しい奴……。それはいったいどういう奴だ。
「飛べない豚はいるか?」
確かめるまでもない。それは僕らにとっては初歩的な問題だった。新しい豚を正面から否定することだから。
「順に訊くぞ!」
いるはずがない。今さら青い海になど戻れるか。
「いません!」
「違います!」
「愚問です!」
「当然です!」
「論外です!」
表現は違っても答えはみんな同じだ。
「勿論です!」
「ほほー、そうか。じゃあ、君やってみて」
教官は足を止めて言った。どうして……。からかっているのか。僕を疑っているのか。冗談じゃない。みんなの視線が僕に集中している。逃げ場はなかった。もう、やるしかない。久しぶりのテスト飛行だった。問題はない。これは初歩的なスキルなのだ。けれども、急に不安が押し寄せてきた。(もしミスをしたら……)その瞬間、この場にいられなくなってしまうのではないか。
「どうした?」
僕の中の不安を読み取ったように教官が言った。
「いいえ。何でもありません」
普通にやればできる。簡単すぎることなんだ。僕は上を向いて走り出した。その時、後ろからイルカの笑い声が聞こえるような気がした。
後先も考えずに猫がぶつかっているというのに、黙って見ていていいのだろうか。触発されたようにみんながテレビにタックルを浴びせ始めた。時を持て余していたニートが、散歩から帰ってきた老人が、鎖につながれていた子犬が、今まで傍観を続けていたみんなが、次々とタックルを試みるのだった。
ドラマを見ているとハラハラするので、規制の銃をぶっ放して神の手オペを規制した。医師は無難なオペを確実に行うようになった。犯人がなかなか捕まらないので、規制の銃をぶっ放して捜査に規律を与えた。刑事をあだ名で呼ぶことを規制して、ちゃんと上の名で呼ぶようにした。聞き込み、尾行、張り込み、ありきたりな手法はすべて規制してやった。犯人の想像の上を行かなければ、お縄はちょうだいできないからだ。頭が痛くなるので、科学的な班はすべて解体させた。技術に頼らない人間ドラマを、心して待った。
そこにもここにもアホがいるので、規制の銃をぶっ放してアホを規制した。一旦落ち着いて賢い人ばかりになったが、しばらく経つとその中の一部からアホが出現して悪さをするようになった。私はまた規制の銃をぶっ放した。そうして安らげる時間はいつもひと時の間にすぎなかった。規制の銃はいつまでも手放せない。「アホと言う奴がアホだ!」アホが捨て台詞を投げていった。アホは私の中にも存在するのかもしれない。私は自分を守るため、私に向かって規制の銃をぶっ放した。
「えっ? 先週も確かそう言ってましたよね」
素麺ブームは衰える気配がなく、どこの店に行っても一本の麺も残っていない。僕は入荷の日を楽しみに一週間を過ごしていた。昨日から何も食べずに足を運んだというのに。
「また来週お越しください」
食欲が一気に失せた。素麺以外の何を食べろというのか。記録的暑さが体力を日々奪っているというのに、今は素麺以外にまるで関心がない。
「くそガキが。10年早いわ」
「いや100年だ。ガキに食わせる素麺はない!」
「まったくだ。氷でもかじっとけってな」
「ははは。こいつは俺たちのもんだ」
「時給950円の俺たちの報酬だ」
「当たり前だ。これくらいないとやってられるか」
「やっぱり夏はこれに限る」
「あっ、ガあ。お客様……」
「ん? 客?」
「何か?」
「トイレ貸してください」
「あー……。ないんです」
「えっ?」
「トイレはないんですよ」
「なるほど」
密かに踏み込んだバックヤードに闇を見た。季節の風物詩は独占的に流されているのだ。僕はすぐさまカメラを起動して店員たちの悪事を撮影しておいた。もうどんな言い逃れも通用しない。
「はい」
「トイレはね」
「はい。ごめんなさい」
「何が?」
「はい?」
「何がごめんなさいなの?」
「ですから。トイレがですね」
「で?」
「で?」
「くそガキに何か言うことは?」
「えーと。いつからそこへ?」
「最初からいたよ」
「最初から……」
「先週くらいからかな」
「実はこの素麺ですね、今入ったとこでして……」
「今ね」
「はい」
「100年前じゃない?」
「お客様……。誠に申し訳ございません」
「うん」
「このことはどうか……」
「さあ、どうしようかな。僕はむしゃくしゃしてるんだよ。何かネットにアップしたいくらい。例えば流し素麺の動画とかだけどね」
「お客様。それはちょっと。よかったらこちらへどうぞ」
「そう?」
「ここ空いてますから。めんつゆも持ってきますから」
「食べてもいいの?」
「勿論。好きなだけお食べください」
「じゃあ、そうするか」
「ありがとうございます!」
「麦茶もあるかな?」
「はい。少々お待ちくださいませ!」
この夏最初の素麺を僕はバックヤードで食べた。
俺は電灯の下で顔のない男と対していた。
お前は俺の影。俺の繰り出すジャブもストレートも、お前には届かない。お前は俺ほどにしなやかで、俺にも増して素早い。何よりも従順な練習パートナーとなるだろう。
俺が立つ限りお前は立ち、俺が倒れぬ限りお前も倒れないだろう。思えば俺の敵はお前だけなのかもしれないな。
さあ、こちらから行くぞ!
俺は強くなりたいんだ!
俺は探りのパンチを繰り出す。フットワークを使い、お前との距離が常に適切であるように心がける。俺はコンビネーションを使い、お前を攪乱する。お前は容易に動じない。抜け目なく間合いを読んで、俺の変化に同調してみせる。先に乱れた方が負けだ。俺は引くべきところで引いて、もう一度動き直す。何度でも何度でも。それが俺のチャレンジだ。俺は自分からタオルは投げない。俺とお前の戦いは、世界に光と闇がある限り続くだろう。どうだ? お前からも打ってこい。度胸があるなら、お前からも打ってくるがいい。そうか。無理か。だったら俺から行くぜ。お前は永遠に俺を超えられまい。もしも超えられると言うのなら……。
痛い!
お前のパンチが俺にヒットした。
(どうせまぐれ当たりだろう)
それは思い過ごし、あるいは俺の自惚れだった。
お前のパンチは俺よりも速く伸びしろがあった。
徐々に正確に俺の顔面をとらえ始めたのだ。
痛い! いてててて!
おかしいな…… どうして俺ばかりが打たれるんだ。
俺のパンチは一切当たらない。なのに打てば打つほどパンチは自分に返ってくる。俺は一方的にダメージを受けた。得意のカウンターは決まらない。俺はついにガードを下げ、一切パンチを出さなくなった。それでも俺の影は攻撃の手を緩めなかった。助けてくれ。俺が悪かった。何がとは言えない。だから許してくれ。(お前を甘くみたのが悪かったのかな)
俺は命辛々に自分のジムまで逃げ帰った。
「誰にやられたんだ」
「ううっ」
「こてんぱんじゃねえか」
「会長……」
「おー、いったい誰に……」
「俺は自分にやられました」
「お前……」
「……」
「とうとう腕を上げやがったな!」
「何だよ。どういうこった」
「強くなりやがったな!」
「会長。どうして……」
「わかんねえのかよ」
「わかんねえ。俺にはさっぱりだ」
「お前はお前を超えちまったんだよ」