眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

お仕事

2010-02-05 16:53:17 | 猫の瞳で雨は踊る
「僕はもうやめることに、決めたよ。
 ここに来る人たちは、みんなどうかしてるんじゃないか?
 自分までそうなってしまうのが、怖いんだ」
「わかるけど……」
けれども、その後の言葉は何も出てこなかった。
未完成の言葉は、いつまでも胸の奥につかえたままで、どこまでいってもそれは気がかりとして自分の中に残り続ける。
それ以来、ロックマンはいなくなってしまったし、もう必要のない答えかもしれないが、過去に遡って埋めることのできない言葉の穴は、ずっと遠くから僕を密やかに見つめているのだ。

座席の下に、黒い染みがいつか見た形でそのまま残っている。
僕は同じ車両に乗ったのだとわかる。きれいなままなら、わからなかった。落ちてしまうような汚れなら気づかなかっただろうに、その黒い染みは洗っても落とすことができないほど強い執念で付着しており、その床の一角を他者と分かち特別な空間に変えていた。その前に僕は座った。
それは本当に、洗っても落ちないのだろうか? あるいは、それは誰かがそれを思い出すように、例えば僕がそれと気づくために、あえて手を加えることなく汚れたままの形で保存されているのかもしれない。意図しないものか、意図したものかわからないまま、現在のところ、それは確かに保存されている。そして、それが保存されている間、僕が再びここに戻ってきた時に、その再会に気づくことができるだろう。黒い染みは、今、僕の足元に落ちていた。

「仕事、してるか?」
「うん。一応しています」

ねえ、ロックマン。
馬鹿野郎は、100人に1人だとしても、それが2人、3人と続くことはあるんだよ。
その時、キミは、どう思った?
自分が、もっと馬鹿野郎になったらどうだろう……。
負けずと馬鹿野郎になったら。

「仕事、してるか?」
「会社員です」

車掌が、車両を回りながら、一人一人仕事の確認をしている。
それは挨拶のようなものなのだ。夕べの雨を話すように、夜の冷え込みを話すように、師走の足音を話すように、それは適当に合わせることもできるし、掘り下げて話すこともできるし、ただ笑って返すこともできる。旅の途中の列車の中では、ただ天候の話は不似合いで、それで車掌は仕方なく、それに変わる何か無難な話を選ばなければならなかった。野球の話では少し普遍性に欠けるし、地球環境の話では規模が大きすぎて狭い車内では耐え切れない。そこで最も無難なところで、車掌は仕事を選んだ。

「仕事、してるか?」
「うるさい! あっち行け!」

後姿を追っていた。親しい関係でもないのに、後姿であの人だとわかる。延々と続く地下道で、僕の前をあの人は歩き続けている。どこまで行ってもあの人はあの人だ。後姿だけでも変わることはなく、あの人は間違いなくあの人だった。どうして顔を見てもいないのに、あの人はあの人であり続けるのだろう? もしもそうでなかったら、その方が喜ばしいことだけれど、その可能性は後姿に明白に表れているのだった。あの人をあの人と識別するのは、顔であるというのは間違いだった。別に強くそれを信じていたわけでもなかったが、今あの人の後ろを歩き続けて、それは強く覆されていくのがわかる。顔などというのは、人の一部に過ぎなかった。人の形は、その周辺のすべてなのだ。人にまとわりついた空気さえもそうだ。僕の後ろを誰かが歩いているとしたら、その人は、僕を見ているのだ。あの人は、延々と僕の前を歩き続けている。僕は追いついて、その顔を見たくはなかった。あの人のことが嫌いだからだ。

ねえ、ロックマン。
人を人と思わない奴らのことだね。
「卵の上にテレビブロスを置くな」
といって憤慨する連中さ。
奴らは鬼さ。顔が鬼であるようにね。
鬼にしてはよく馴染んでいるし、鬼の中ではまだましな方だよ。

「仕事、してるか?」
「……」

自分だけが、忙しかったり、絶対的に正しかったりする奴ら。
それは宇宙人さ。
彼らにしても、まだ慣れていないんだ。
人と違うのは、当たり前だよ。
育ってきた環境が、まるで違うんだから。

「仕事、してるか?」
「人を笑わせるのが私の仕事です」

ねえ、ロックマン。サラダひとつを取ってごらん。
彼らは好き勝手なことを始めるよ。
レタスを入れるもの、トマトを入れるもの、ハムを入れるもの、コーンを入れるもの、ポテトを入れるもの。放っておくもの、日付を書くもの、たくさん作るもの、その都度作るもの、作らないもの、作りすぎるもの、一つずつラップをするもの、大雑把なラップをするもの。ドレッシングをかけるもの、かけないもの、かけすぎるもの、かけ忘れるもの、2度もかけるもの。ルーツはみんな同じはずなのに、その後はみんなバラバラだ。慣れてくるに従って、みな勝手なアレンジを加え始める。人間って凄いよね。
彼らに、ボールを与えてごらん。世界中で、異なる遊びが始まるだろう。

「仕事、してるか?」
「あるいは、させられているかだね。
 ちょうど今のあんたが、列車という冬の中を巡回しているようにね。
 好きでそうしている奴は稀だ。
 けれども、好きでもないものの中からでも、自分らしい何かを見つけることは可能なのだ。
 その質問は、あんたが自分で考えたのかい?」

「仕事、してるか?」
「今は隠居の身でね、細々とやっておりますわ」

「仕事、してるか?」
「将来は、お金持ちになるの。困った人たちを助けてあげるの」

「仕事、してるか?」
「人知れず、芸能人をしております」

「仕事、してるか?」
「私に勤まる仕事があるでしょうか?」

「仕事、してるか?」
「もう、身が粉になりました」

「仕事、してるか?」
「海賊が物を盗んで何が悪い?」

「仕事、してるか?」
「仕事を作るのが、わしらの仕事よ」

「仕事、してるか?」
「忙しくて、仕事どころじゃないよ」

「仕事、してるか?」
「魔法使いから、賢者になったんだよ」

ねえ、ロックマン。僕はわからなくなったよ。
人間に見えるのは人間なのだろうか?
人間に見えないものは人間ではないのだろうか?
鬼が人間に化けているのを、見たよ。
人間がカエルにされていたことも、あったね。
車掌が、形式的な質問を抱えて、僕の方にも回ってくるよ。
だから、そろそろ目を閉じないと。
じっとそうして、危機が通り過ぎるまで、僕は、じっとそうしているんだよ。


*


散文の遊戯に戯れ果てた猫から、マキはようやくケータイを取り戻した。
無秩序に並んだ断片の中に、見覚えのある風景を見つけて手を止めた。

「その車掌さん。私も知ってるよ。
 あんたの仕事は、どうせ眠ることでしょ。
 私は、どうすればいい?
 これから先は……」

羨むように、マキは猫の寝姿を眺めた。
ノヴェルは、規則正しい寝息を立てながら夢中で働いていた。


コメント
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