「不思議ですよね。どんなコンピュータが作った写真よりも先輩の描いた絵の方が効果的だなんて」
「不思議なもんか。ありのままじゃないから伝わるんだよ」
「そんなもんっすかね」
先輩に描かれて逃げ延びた犯人はいなかった。風の便り、猫の横顔、鴉のうわさ、ばあさんの小言、車輪の軋む音、時代のうねり、落ち葉のくしゃみ……。一度先輩が筆を手に取った時、どんな些細な情報からでも完璧と言える似顔絵が完成する。そのタッチの自然な運びは、何度見ても惚れ惚れとする。ひとかけらの手がかりをかき集めることからすべてが始まる。最も重要なのは、刑事としての聞く力に違いない。だからこそどんなに可能性の低そうな場所でも、私は先輩の後について歩いて行く。この街の治安を守るため、いかなる妥協も許さない。私は心より先輩のことを尊敬していた。
世界が外出自粛を呼びかけ始めた頃、先輩の捜査手法も変わり始めた。部屋からあまり出なくなってしまったのだ。
私が買い出しから帰ってくると、先輩はキャンバスに向かって筆を這わせていた。
「先輩、こいつが犯人ですか?」
「そうだ。間違いなくこいつだ!」
漲る自信。しかし、何か腑に落ちない。近頃はどこにも聞き込みに行っていないはずだ。犯人とされるための根拠は、どこに存在するのだろう。
「悪そうな奴ですね」
「おう。絶対逃さないぞ」
そうだ。先輩に描かれて逃げ延びた者はいないのだ。似顔絵が完成して街中にばらまかれると、すぐに結果が出る。アトリエにこもりっきりとなっても、相変わらず犯人は次々と捕まった。中には明らかにアリバイがあるとされる者、全く動機も接点も見当たらない者も含まれている。そこが今までとは少し異なる点だった。
私はもっぱら買い出しに忙しかった。
(ありのままじゃないから伝わるんだ)
イズミヤの中を歩き回りながら、かつての先輩の言葉が脳裏をかすめた。あれじゃない。これか。少し違うな。でもやっぱりこれか。似たようなものだな。レジはセルフか。そうでもないのか。
「戻りました」
「ご苦労。あったか?」
「レモンがなかったのでプレーンになりました」
「そうか」
キャンバスに向いたまま言った。
「こいつが犯人ですか?」
「そうだ。こいつに間違いない!」
「確かなんですか?」
私は思い切って疑問をぶつけてみた。
「何か問題でも?」
「どこにも聞き込みに行ってませんよね」
「捜査活動に忙しいからな」
「本当ですか?」
「何がだね」
「本当にこれが捜査なのでしょうか」
「わかっとらんな。進化とは省略なのだよ」
「お言葉ですが、それでは公正さを欠いてしまうのでは?」
「いいかね。これは新しい手法なのだ。私が描けば犯人は私の絵に吸い寄せられ近づいてくるのだ。私が髭を描けば犯人も髭を伸ばし始める。私が額にタトゥーを刻めば犯人もそれに従う。犯人は私の描いた絵のあとから現れるのだ」
「そういうのを捏造と言うのではないですか」
全くアベコベだ。何が人間をこうも変えてしまうのだろう。
「違う!」
天狗は即座に否定した。
「わかりませんね」
「わかっとらんな。正攻法だけでは悪は滅ばぬ」
「聞き込みは必要ですよね」
「聞き込みなんかに骨を折らずともここで描いてあとは待っていればいいんだ。これは正義へのあふれんばかりの情熱だよ」
「お疲れさまです」
やっぱり何か間違ってますよ……。
悪が易々と逃げ延びる世界は間違っている。だけど、悪を作り上げることは、本当の悪に加担することと同じだ。正義を守るべき者が、その反対側に手を貸すなんてことがあってはならない。もしも、身近にある正義が翻ってしまったら、それを咎めるのが相棒の務めではないか。しかし、私にそれができるものか。天狗とは言え、心より尊敬していた先輩だ。
「ついに最高傑作ができたぞ!」
「こいつが次の犯人ですか?」
「ああそうだ。こいつに違いない!」
「先輩、これは……」
「こいつを逮捕するんだ!」
「どうしてですか?」
「理由はもうわかっているのだろう」
「警部」
「私はどこかで作風を間違えてしまったようだ」
「ごめんなさい。ずっとそばにいながら」
「このこぢんまりとしたアトリエですっかり自惚れてしまうとはな」
「きっと何かが行き過ぎたんですね」
「何をしている、さっさと犯人を逮捕しろ!」
「はい!」
私は歯を食いしばって先輩に手錠をかけた。罪の半分が私にもないとは思えなかった。
「持って行きますか?」
「ああ、すまない」
先輩の最後の作品は赤い鼻を伸ばした自画像となった。
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