「切るだけがさばきじゃない」
なぜそれはいい手なのか?(悪手なのか)なぜこう指すのか? 人間は、わかっていても同じ失敗を繰り返す。わかっていなければ永遠に繰り返すことだろう。研究というのは、いい手をたくさん知ることも大切だが、それと同じくらいに「なぜ」を探究していくことも重要だ。手を知っているだけでは、真に知っているとは言えない。深く理解するほど、本当の力になるだろう。
~取らせるというさばき(取り合う/自分の手を指す)
「急所の馬を取った竜はぼける」
大事な駒がプレスを受けた時、あなたはどう考えるだろうか? どう守ろうか。切ってしまおうか。しかし、それだけでは好手を逃してしまうかもしれない。そこには「取らせる」(手抜く/動かさない)というもう一つの着想が欠けている。
(終盤は駒の損得より速度)
終盤へと加速していくほど、「手抜く」という判断は重要になっていく。例えば、居飛車の86歩の突き捨てがそうだ。仕掛けの最初に突けばほぼ取る一手だが、既に他に争点ができた後ではその厳しさによって「手抜く」という判断が可能になっていく。
歩が竜と馬になったとしても理屈は同じだ。例えば、振り飛車の馬が66の地点にいて、居飛車の竜が69の地点からそれをプレスしているような局面だ。66の馬は攻防の急所を占めている。普通なら(序盤なら)当然のように守る一手。しかし、終盤では話が変わる。もしも、自分にも敵陣を向いて攻めていく有力手があるとしたら……。
66にいる馬は急所だが、それを取った竜は働きが弱い。(馬は中央で働くが、竜は敵陣にいなければ脅威が半減することが多い)馬を取らせる一手。竜を遊ばせる一手。そこには2手分の価値があると言える。その間に厳しく敵陣に迫っていくことができれば、終盤(寄せ合い)を優位な展開に持ち込めるはずだ。
「どいてください」という働きかけに対し、「取ってください」という主張があり得るのが、終盤の面白いところではないだろうか。
~むしろ紐がついてない方がいい
将棋を覚える時に、駒の取り方はたくさん教えてくれるけれど、取らせ方についてはそうでもないのではないか。(さばきの観点では重要な技術であるのに)
「取らせる」(取り返さない)前提となった時に、紐はついてない方がよい場合がある。完全にただ=駒損。序盤の感覚では大損だ。だが、終盤の感覚では事情も変わる。紐がついているということは、当たりが強くなっているということでもある。忙しい攻め合いの中では、「同金」のように取り返す一手が惜しいのだ。
「どう取らせるか?」
そのように考え、相手の駒を何もない空き地へと導く。取らせることによって、取った駒を「遊ばせる、重くする、空振りさせる」。そうした感覚を身につければ、さばきのレベルは数段アップするに違いない。
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