本を手にしたい時には、本屋さんへ。コーヒーが飲みたい時には、カフェへ。では、野菜が欲しい時には? 何の疑いも持たず、僕はずっとスーパーに足を運んでいた。(本当に何も疑わなかった)だが、今日になって僕は目覚めた。随分と時間はかかってしまったけれど、目覚めることはよいことだ。これをきっかけに、もっともっと色んなことに目覚め始めるかもしれない。当たり前だった日常に一筋の光が射した。光は大通りを逸れて、少し寂れかけた商店街の方へ伸びる。すっかり忘れていたのは、八百屋さんという存在だった。
今までずっと長いものに巻かれていたのだろうか。なぜ、スーパーだけにとらわれていたのだろうか。スーパーを過信しすぎてはいなかったか。反省の意を込めて、スーパーについて考え、また八百屋さんについても考えてみたいと思う。
スーパーには、様々なストレスや危険も待ち受けているようだ。だいたいのスーパーは入り口が自動ドアになっていて、外部と完全に遮断されている。中に入ろうとすると、出てくる人とぶつかりそうになることも多々あるのではないか。一方、八百屋さんの多くは通りに面していて、だいたいはオープンになっていることが多い。店に入るまでもなく野菜に近づくことができるのはうれしい。
スーパーは店が広いだけあって、客も多い。(時には多すぎる)密閉された空間に効ききずぎた冷房は、体にわるい。人が多い分、身動きも取り辛く思うように買い物が捗らない。歩く内に迷ってしまったり、歩き疲れてしまうこともある。時間帯によっては、レジには長蛇の列ができてしまう。八百屋さんなら、時間帯によっては貸し切りだ。列に並ぶようなことはほとんどなく、店主に直接お金を渡すこともできるだろう。
レジに並んでいる間に余計な物まで買ってしまうという人も多いのではないか。それもスーパーが仕掛けた罠の一部である。色んなものを(ついでに/何となく)買ってもらおうとするのが、スーパーなのだ。コーヒーの近くには、シュガーやミルクが置いてある。うどんの近くには、天ぷらやきつねが置いてある。何でもあるというのは、便利な半面、危険でもある。もはやあきれるほどに価格が上がっていくこんな時代だからこそ、本当に欲しいものだけを買うべきではないか。その点、八百屋さんなら心配はいらない。八百屋さんには野菜がある。あるのは主に野菜だけだ。
スーパーは賑やかで楽しいという人もいるかもしれない。「いらっしゃい! いらっしゃい!」確かに、威勢のいいスーパーもあるだろう。だが、その声は本当に生の声か。天棚の上にあるCDが回っているだけということもある。「いらっしゃいませ!」その言葉は、果たして本心なのか。実際には、マニュアルを読んでいるだけということも多い。八百屋さんは違う。「いらっしゃい!」店主は心より客を歓迎していることがわかる。
スーパーは安いとチラシを見て思い込んでいる人も多い。だが、価格は二重表示になっていることも多く、安いと思わせたい方が大文字になっている。とても良心的とは言えない。一方、八百屋さんではラップの上に230円と貼られていたら、だいたいそのままだ。つまり明瞭会計だ。余計な物を買ってしまうリスクがないのも安心である。
大きいスーパーの方が安全・安心だと考える人もいるかもしれない。だが、それは幻想かもしれない。スーパーの品質管理はある程度徹底されてはいるが、業務に携わっている人数が多いことも厄介であり、決して完璧ではない。陳列棚を掘り返せば、期限切れの商品がみつかることも珍しくはないのだ。野菜の鮮度はどうか? 品数が多いほど管理するのも大変だ。責任者は誰だ? チーフは誰だ? 店長は忙しい。(いったい店長はどこにいるのだ?)野菜だけを見てはいられない。一方、八百屋さんなら心配はいらない。店主はいつでも野菜に向いている。「いらっしゃい!」そして、あなたが来ればあなたの方を向いてくれる。
スーパーだけで何でも済ませればそれは楽だろう。八百屋さんに行ったり、パン屋さんに行ったりするのは、面倒かもしれない。しかし、面倒もまた「楽しい」と考え直すこともできるように思う。
いずれにしろ、(あなたが行っても行かなくても)スーパーはびくともしないだろう。けれども、あなたの今日からの行動によって救われる八百屋さんはあるはず。よければ一緒に救う方に動きませんか。きっとあなたにもできますよ。
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