碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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島田紳助引退騒動について、「北海道新聞」で論評

2011年09月01日 | メディアでのコメント・論評

9月になりました。

まだまだ残暑ですが、9月と言われると、「もう秋になるのかなあ」と少し寂しいような気もします。


さて、先日の島田紳助引退騒動について、「北海道新聞」に寄稿してあったのですが、30日の夕刊に掲載されました。

これを書いたのは会見直後で、まだわからないことが多い状態でした。

あれからいろんな話が伝わってきています。

しかし、幸いなことに(というか紳助にとっては困ったことに)、私の論評に修正は必要ありませんでした(笑)。


<島田紳助引退 私はこう考えた> 

“今後の自分”守る 


島田紳助の記者会見で最も印象に残った言葉は「美学」だ。

「謹慎程度で済むところをあえて引退する自分」「身をもって後輩たちへの戒めとなる自分」といったニュアン スを強調していた。

だが、果たしてそんなキレイ事なのだろうか。

仮に十数年前に自らのトラブルを暴力団関係者に解決してもらった経緯や、その後もつき合ってきた事実を外部から指摘され、謹慎という形をとった場合、この問題はずっと継続されてしまう。

しかも紳助のイメージはダウンしたままだ。

しかし、「引退」となれば印象は違う。

会見に集まった記者たちを、切腹を思わせる「 介錯」に例えたように、日本人が好む“潔い引き際・散り際”としたかったのだろう。

それはまさに“今後の自分”を守るための切り札だったのではないか。

一般人に戻ればビジネスはもちろん国会議員でも大阪府知事でも目指すことが出来るし、実際に立候補したら当選の可能性も高い。

あの記者会見から見えたのは「美学」どころか、きっちり計算された「実学」である。

ただし、余りに隠されている部分の多い会見であり説明だったため、今後、本人の思惑通りに行くかどうかは不明だが。

一方、「放送業界に激震」などと言われているが、実はそれほどのことはない。

この業界には昔から「テレビに黒味(くろみ:何も映っていない黒い画面)は出ない」という言葉がある。

どんな非常事態でも何かを流す(間に合わせる)のがテレビであり、紳助一人が画面から消えても電波が止まるわけではない。

当面困るのは高視聴率の継続が危うくなった番組の再編成だ。

だが、テレビ各局とてこれまで紳助に十分稼がせてもらったはずだ。

むしろ、各局の制作担当者は紳助と暴力団との関係を本当に何も知らなかったのか、という点こそが気になる。

もしも、多少でも怪しむ要素があったにもかかわらず、「視聴率男」であり番組の顔であることに配慮し、見て見ぬふりをしてきたなら大問題だ。

(北海道新聞 2011.08.30)


掲載後、北海道のメディア関係者から、この論評を読んだとのメールをいただきました・・・・

「道新夕刊拝見しました。いや、おっしゃるとおりだと思います。テレビ報道は黙らせられても、雑誌の口止めはできません。だいたい雑誌は同じ方向をついています。

(マル暴、マル右対策として)毒を持って毒を制するやり方は、少し前までどこでもやっていましたよね。しかしすでに時代が違っています。

核心に触れない引退会見は、へたな猿芝居を見せられているような印象だけが残りました」

・・・・そういうことだと思います。